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木質の偽造ペレット工場

東方の二次創作SSです。いぢめ・グロ注意

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歩け! イヌバシリさん vol.8(終)

※超絶オリジナル設定注意。
※一部残虐表現有り。




【 登場人物 】

犬走椛:哨戒を任務とする白狼天狗。幼い頃に天狗社会上層部の手違いで住んでいた集落を壊滅させられる。
    成長してからは大天狗の下で裏稼業に従事していた。そのため大天狗とは長い付き合い。死線を多く潜っていたため、他の白狼天狗よりも圧倒的に強い。
    自分の故郷があった場所に守矢神社がダムを計画していると聞き、かつてない衝撃を受ける。

射命丸文:新聞記者の鴉天狗。椛のことを好いている。発行する新聞も能力も高い評価を得ており、他の天狗から一目を置かれている。
     神奈子から椛の過去を聞き、守矢側に寝返り、山を情報を流している。
     秘密裏に進めている計画がある。

姫海棠はたて:新聞記者の鴉天狗。引篭もりだったが今ではそれほど苦もなく他人と話せる。
       現在は天魔に弟子入りし、一人前になるための鍛錬を積んでいる。天魔とは血縁関係にあることを本人は知らない。
       椛の過去や、ダム計画の事は一切知らない。蚊帳の外の状態。

大天狗:中間管理職。見た目は妙齢の女性。最古の天狗の一人。椛のことを『モミちゃん』と呼ぶ。フレンドリーな性格。
    独身であることを気にしている。そのため合コンを頻繁に企画する。失敗率は脅威の99.8%を誇る。
    ダム開発が提案された土地の権利書を持っているため、天狗の中で一番最初にダム計画を神奈子から聞かされた。

天魔:天狗社会の最高位。見た目は童女だが最古の天狗の一人。天狗最強。
   唯一の血縁関係にあるはたてを気にかけており、弟子として傍に置いている。


八坂神奈子:守矢神社の神。神としての絶大な力を誇る。信仰のためなら他者を平気で利用する。
      椛の過去を知り、椛の故郷をダム計画の舞台にすることを考案した。

洩矢諏訪子:守矢神社の神のもう一人の神。祟り神の統括者であるためか、時おり残忍な面を見せる。
      巫女の早苗を誰よりも気にかけている。そのため神奈子とはそのことで何度も衝突する。
      天魔に親近感を持っており、姫海棠はたてのことを『お姫ちゃん』と呼ぶ。

【 prologue 】


犬走椛が東風谷早苗から樹海がダムに沈むという話を聞いた次の日。
彼女は哨戒の任務が終わると一目散に大天狗の屋敷へと向かった。

屋敷の門の前に辿りついた時、ちょうど外出から戻ってきた大天狗と出くわした。

「大天狗様っ!」
「あれ? 今日は報告も受け取る書類も無い日のはずだけど? なんかあったっけ?」
「あの樹海に関することで、気になる噂を耳にしたもので」
「…誰から聞いたの?」
「守矢の巫女です」

大天狗の表情が神妙なものに変った。

「その話は中でしましょうか」

顎をしゃくって、屋敷に入るよう促した。

「おかえりなさいませ大天狗様」
「これから大事な話をする。誰も近づけるな」
「御意」

玄関で出迎えた従者にそう伝え、自室へと向かった。





「さて、どっから話したらいいかな」
「やはり本当なんですね」
「うん。それをさっきまで話してたの」

今日の朝。大天狗は天魔に。守矢がダムの話を持ちかけてきた事を知らせた。
その後すぐに重鎮に召集をかけ、緊急の会議が開かれた。

「ダムになんか沈みませんよね?」
「わかんない」
「頼りないこと言わないでください」
「先日の山火事によって、かなりの範囲の木がダメになった。これまであの場所が大雨に見舞われても、あの木が大量の雨水を貯蔵してくれていたわ。それが無くなった」

今まで木が蓄えてくれてた水が、そのまま麓まで流れることになると、川の氾濫や、床上浸水等の恐れがあった。

「もちろん、氾濫や洪水が起こるっていうのはあくまで“可能性がある”ってだけ。木が無くても平気な、安定した土地なのかもしれない」
「じゃあ無理にダムなんて作らなくても」

この山に住む者である以上、山の自然をダム開発という形で壊したいと考える者はまずいない。

「それがね」

大天狗は小さく首を振った。

「一部の老害……ゴホン、重鎮にとっては、ダム建設ってのは朗報だったりするのよ。賛成する奴が出てきた」
「何故です?」
「あの土地は山の歴史の暗部だからね。ダムに沈めてしまいたいと考える重鎮も中にはいるわけよ」

樹海はかつて、上層部の手違いによって白狼天狗虐殺の惨劇が起きた現場であり、それ以降は公に出来ない理由で死んだ白狼天狗の死体を捨てる場所として使われてきた曰く付きの区域である。
その土地を潰したいと思う者がいても不思議ではなかった。

「臭いものには蓋ってやつ?」
「大天狗様はどちら側ですか?」
「出来ることなら残しておきたいわ。天魔ちゃんも同じ考えだと思う」
「そう、ですか」

ほぅと安堵の息を吐いた。
影響力が強い二人が反対の立場である以上、易々とダム建設が決まるとは思えない。

「来週と再来週で話し合って、再来々週の会合でダムに賛成か反対かを投票で決めることになったわ」

山全体に公表しては収拾が付かなくなるという理由から、この件は極秘として、重鎮達の中でのみ協議し決断を下すことになった。

「ダムにしたいと考える連中は多いのですか?」
「残したい3割、潰したい3割、どちらでも良いが4割。正直、厳しいかも」

大天狗は煙管を取り出す。

「禁煙中では?」
「やめた。ストレスが溜まってしょうがない」
「そうですか」
「そういうワケで火ぃちょうだい。ソコに入ってるからさ」

マッチが入ってる棚を指差す。
イラついた手で上手くマッチを擦る自信が無かった。

「それくらい自分でやってくださいよ」
「他人に火をつけてもらった方が美味しいのよ」
「そんなモンですか?」
「そういうモンよ」

面倒くさがりながらも棚を物色し、目当ての物を見つけて、大天狗の横に座る。

「しかし、案外冷静で安心したわ。もっと取り乱すかと思った」
「焦って大局を見失うほど、未熟ではありませんよ。じゃあ着けますね」
「お願い」

大天狗が加える煙管の先に手を伸ばす。

「でも内心、気が気じゃありません。だからお願いしますよ大天狗様」
「うん、任してちょうだ…熱ッ天魔ちゃんとも話し合っアチッ、対策を……あつッ、熱いってば!!」
「わっ」

顔に当たる火花に耐えかねて立ち上がる。

「なんで顔面間近で火打石を擦るかな!?」
「え? あっ…」

ようやく自分がしていたことに気付く。

「あっつ、これちょっとしたプチ整形じゃん」
「申し訳ありません」
「ひょっとしてメチャクチャ動揺してる? してるよね?」

よくよく見れば、椛の瞳孔が全開に開いている。

「そんなことありませんよ大天狗様」
「大天狗様はコッチ! それ部屋の柱!」
「大天狗様が二人? これは残像?」

(ダメだわ、動揺しまくってるせいで、普段のボケとツッコミの構図が入れ替わってる…)







山の一角にたくさんの墓石が並ぶ場所がある。
その中でもひときわ立派な墓の前に姫海棠はたてと天魔はいた。

「別に、お主まで付き合う必要などないぞ?」
「この人にはたくさんお世話になっていたので」
「ならば好きにすると良い」

はたては手桶を、天魔は献花をそれぞれ手にしている。
墓参りを言い出したのは天魔である。
ダムについての会合が終わったその足でここに向かう途中、はたてと会った。
彼の墓参りをする旨を伝えると、はたても同行を願い出た。

「相変わらず人望があるのう」
「お花、いりませんでしたね」

すでに墓前には真新しい花が供えられていた。
彼が亡くなってからだいぶ時間が経っているにも関わらず、墓参りに訪れる者は多い。
備え付けられている花瓶に自分達が持ってきた花を追加し、必要ないとは思いつつも二人で墓石を磨いた。
他の墓よりも大きかったが、汚れている箇所が無いため作業はすぐに終わった。

「こやつと親交があったのか?」
「はい。引篭もる前から、色々と気にかけてくれてて、私にとってお爺ちゃんみたいな人でした」
「そうか」

二人は静かに墓前で手を合わせ、黙祷を捧げた。

「お主は先に帰っておれ。儂はまだ少しここでやることがあるのでな」
「わかりました。お先に失礼します」

はたての後姿が遠くにあることを確認して、天魔は腰を下ろした。

「ずいぶんと前から面倒を見てくれていたそうじゃな。お前のことを『お爺ちゃんみたいな人』だと抜かしておったわ」

その言葉に対して僅かばかり嫉妬心が芽生えたのは内緒である。

「お陰で今はちゃんと山に馴染んでおる、まだちょっと不安な部分もあるがの。あれには才能がある。きっと化けるぞ。なんせ儂の血を引いておるからな。かなり薄いが」

弟子に取ってまだそれほど時間は経っていないが、基礎だけはみっちりと鍛えた。
はたてにその自覚は無いが、同年代の鴉天狗の中で頭一つ分抜き出ている。

「さて、自慢話はここまでにするか」

墓石を前にしても口がちゃんと回るのを確かめて、本題を切り出した。

「お前が大昔に大失態を犯したあの土地を覚えておるか? 無実の白狼天狗が大勢殺された痛ましい事故のあった土地じゃ」

犬走椛という偽名の白狼天狗が生まれる切っ掛けとなった場所であることを天魔は知らない。

「思えば、あの一件からお前は変ったのう。不遜な態度をやめ。あれだけ見下していた白狼天狗に親身になり、一線を退いてからは差別撤廃に身を投げうった」

彼の働きによって、天狗社会の歪みは幾分か矯正された。
そして様々な天狗の良き相談役として多くの者を支えてきた実績もあり、彼を恩師のように仰ぐ天狗は決して少なくはない。

「お前を変えた切っ掛けとなった場所が今、ダムに沈もうとしておる」

今日の話し合いの様子を見るに、あの土地に後ろめたい過去がある連中はダムに反対する素振りを見せず、それどころかダム建設を助長する発言さえする者も居た。

「お主のことじゃ。もし今も生きておったなら、何が何でもあの土地を守ろうとするじゃろうな」

人望のあった彼なら、保身のことしか頭にない重鎮共すら説得できたに違いないと天魔は思う。

「儂も出来ることは全部やってみるつもりじゃ。少しでも、お前が愛したこの山を、はたて達のような未来ある若い天狗に残してやりたいからの」

立ち上がってなお、自身の背丈よりずっと大きな墓石にそう宣言した。













天魔が去ってしばらくして、射命丸文が墓の前に降り立った。

「死んでも人気者ですね。羨ましい限りです」

先に来ていた二人と同様の感想を述べ、周囲に誰もいないことを確認してから、静かに両手を合わせて目を閉じる。

「私もはたても、貴方を尊敬しています。輝かしい功績のその裏で、許されないことをたくさんしていたとしても、その念が揺らぐことは決してありません」

そう前置きをしてから、目を開けた。

「聞きましたよ二柱から、貴方と椛さんの間に何があったのか」

椛の故郷を全滅させた張本人。
そして死後、その事を悔いて厄ガエルとなって椛の前に現れた事を、神奈子から知らされた。

「どういう経緯で椛さんが生き残りであることを知ったのかはわかりませんが、さぞ椛さんに対して負い目を感じていたのでしょうね」

死後、化けカエルになってまで出てきたのだ、相当な後悔があると見て間違いない。

「どうして誰にも打ち明けようとしなかったのですか? ひょっとしたら何か手があったかもしれないのに」

単純に発覚を恐れてなのか。
それとも、全ての責任は自分にあると考え独りで背負い込んだのか。
彼の人柄からして、おそらく後者なのだと文は推測している。

「でもですね。想いは伝わらねば何の価値もないんです。貴方は椛さんに対して何もしていない。いくら悔いていようと『生前も死後も貴方は椛さんを苦しめ続けた』それが事実です」

結局彼は、椛個人に対して、謝罪も償いもしないまま逝ってしまった。

「家族と友人を奪ったヤツが、皆から慕われ偉人と讃えられながら天寿を全うするのは、さぞ腸(ハラワタ)が煮えくり返る思いでしょうね。きっと私がこうしている今も彼女は貴方に対して憎悪の炎を燃やしているの

かもしれません」

彼の葬儀があった晩、彼を悪く言おうとした椛を咎めたのを思い出す。
今なら、なぜ椛があんな事を口走ったのかわかる。
そしてそれを咎めてしまった無知な自分を恨んだ。

「貴方はこの山の為に十分過ぎるほど働いた。今更『償え』なんて言うつもりはありません。だから任せてください」

墓石に背を向ける。

「元部下として、貴方が遣り残したことを、きっちりと終わらせてきます。安心して眠ってください」

文の足は、守矢神社に向いていた。














文が墓地から去ったのと同時刻、木々が鬱蒼と生い茂る樹海の中に椛はいた。

「絶対に、ここは沈めませんから」

墓石も何も無い、ただそこに屹立する一本の楓に向かい、椛はそう告げた。
それだけを言いに来た椛は、踵を返して樹海を出ようとする。

「厄いわね」

振り返った椛の目の前、いつからソコにいたのか、音も気配もなく鍵山雛が立っていた。

「相変わらず神出鬼没ですね」
「褒め言葉して受け取っておくわね」
「ここは立入禁止ですよ」
「天狗が勝手に決めたルールに部外者の私が従う道理は無いわ」
「それもそうですね」
「そんなことより、貴女には見えるかしら? この地から溢れ出す大量の厄が」

スカートの裾をつまみ、雛は優雅にくるりと回った。

「この辺りが急に厄っぽくなったけど、何か心当たりない? 犬走***ちゃん?」
「その名を知っているなら、ここがどんな地かご存知でしょう?」
「ここの悲劇は知ってるわ。でもここ最近になってこれだけ急激に厄が増えるのは異常よ。このままだと完全に閉鎖しないと…」
「ここは私の故郷だ! そんな勝手を許すと思うか!?」

気付けば恫喝まがいの声を上げていた。

「…すみません」

冷静さを取り戻し、無礼を詫びた。

「貴女の心の繊細な場所に土足で踏み込んだ私も悪かったわ」
「ではこれで。厄神とはいえ、雛さんもあまりここには長居しないでくださいよ」

雛の横を通り過ぎ、樹海の外に向かい歩いていく。

「困ってることがあるなら言いなさい。何か力になれ……行っちゃった。相変わらず余裕の無い子ね。貴女もそう思うでしょ?」
「まぁ昔からああいう奴だから」

楓の木の横、白狼天狗の少女が首をすくめて、すぐに消えてしまった。









【 歩け! イヌバシリさん ~ last episode ~ 】






一週間が経ち、この日、重鎮達による一回目の会合が行われた。

「どうでしたか?」
「あんまり良い流れじゃないわ」

夕方、哨戒を終えて大天狗の屋敷にやってきた椛に大天狗はそう告げた。
4割が『しょうがいない』と言ってダムに賛成。3割が反対。残りが無回答な状況だと説明した。

「ダムの代案として、排水用の水路を新たに設けて一番近くの川と繋げるって案を出したけど。これから計画を立ててたんじゃ雨期に間に合わないって反対されたわ」

ダムは設計図がすでに出来ているため、道具と資材さえあればすぐに着工可能な状態だった。
堰止めをするための巨大なコンクリート壁を、窪地に一枚設けるという工法は、外の世界では重力ダムと呼ばれているものらしく、今回の規模なら短期間低コストで行えるらしい。

「代案があれば、老害を言いくるめられると思ったけど、アイツらあれこれ理由をつけてダム建設に持ってこうとしてるのよ。よっぽど沈めたいらしいわ」

いけ好かない連中の顔が浮かんだため、頭を軽く振って思考から追い出す。

「私にも何か」
「残念だけど、何も無いから。大人しくしてて。あの土地の過去を知る白狼天狗が出てくると、事態がややこしくなるから」
「しかし…」

当事者でありながら、何も出来ないことに小さな憤りを感じ、袴を強く握る。

「モミちゃん、ここ最近ダムのことで頭が一杯でしょ? 無理も無いかもしれないけど」

不安でろくに睡眠が取れていない事は、表情を見ればすぐにわかった。

「お小遣いあげるからさ、今日くらいそれでパーッと遊んできなよ。気晴らしになるよ?」

がま口財布を取り出して椛の前に置く。
辛いことを一瞬でも忘れさせるための、大天狗なりの気遣いだった。

「有りがたい話ですが、結構です」
「じゃあ私と一緒に逆ナンしに行こう。たまにはお洒落して男と遊べば? 楽しいわよ?」
「それは大天狗様が行きたいだけでしょう?」
「大天狗お姉さんに逆らうとは良い度胸。こうなったら意地でも付き合ってもらうわよ。うりゃー!」
「おわっ!」

大天狗が椛にじゃれつくように飛び掛り、押し倒して馬乗りになる。

「さあ可愛くなっちゃいなさい!」

椛を片手だけで押さえつつ、化粧品が入った小箱に手を伸ばす。

「これなんてどう? 外の世界でしか作られてない口紅。あの八雲紫も愛用するっていう超レア物よ?」

キャップを外して椛の唇に近づける。

「モミちゃんなら、口紅塗るだけでだいぶ印象変わると思うんだけど?」
「どいてください! 私には必要ないですから!」

本気で嫌がる椛。

「薄く塗るだけ! 先で軽くなぞるだけだから!」
「いいですってば!!」

「失礼します。お茶が入りまし…」

二人にお茶と和菓子を届けに来た従者が襖を開けた。
そして固まった。

「(口紅の)先っちょだけ! (口紅の)先っちょだけだか……ん?」
「いくら大天狗様でも怒りま……ん?」

「…」

従者の目が合う。

「お、お邪魔しました!!」

従者は慌てて襖を閉めようとする。

「待ちなさい!」

閉まる直前の襖に大天狗が足がすべりこませる。

「そうですよね! 『誰も近づけるな』っていったら普通そういう意味ですよね!? すみませんでした!」
「待ちなさい! アンタは何か重大な勘違いをしてる!」
「な、何も見ておりません故! ごゆるりと続きを! 先っちょといかず根元まで!」
「違うから! 私とモミちゃんはそういう関係じゃないから!!」
「某、そういうことに理解はありますからご安心を!」
「だーかーらー! 私とモミちゃんはそういうんじゃなくて…」
「椛殿って牛若丸と雰囲気が似てますもんね!」
「昔の男の名前出してんじゃないわよォォ!!」

大天狗と椛、二人掛かりの説得により、その三十分後に従者の誤解は解けた。







天魔の屋敷。
会合を終えた天魔が帰ってきた。

「帰ったぞ」
「お帰りなさいませ天魔様」

女中が出迎えた。

「はたてはどうしておる?」
「天魔様の御言いつけ通り、奥から三番目のお部屋で修行されておりますが」
「また居眠りなどしとらんだろうな?」
「半刻ごとに様子を伺いましたが真面目に取り組まれておりましたよ」
「そうか」

怠け癖があるのか、目を離すとすぐ楽をしようとする傾向があるため、定期的に見回りするよう彼女には伝えておいた。
荷物を預け、はたてが修行する部屋に向かう。
襖がはじめから開け放たれてあるお陰で、わざわざ覗き見をしなくてもはたての姿が見えた。

はたては部屋の真ん中で正座し、目の前に置かれた岩に傾注している。

「ふー」

小さく息を吐いてから、目の前の岩に手を翳す。念写をする要領で妖力を込めると岩が小さく震え始めた。
震えは徐々に大きくなり、やがて生きているかのように岩が跳ね始めた。

「もうだめ。疲れた」

突然、糸が切れた人形のように、はたては横向きに寝転んだ。
岩もそれきり動かなくなった。動いたのはせいぜい十秒程度だった。

「今戻ったぞ」
「え、あ、て、天魔様!? お、お帰りなさいませ! こ、これは別にサボっているわけじゃ…」
「案ずるな、ちゃんと見ておった。今日はこれくらいにするか」

そう言って、はたての前にある岩を掴んだ。

「この岩は何なんですか? 普通の岩じゃ、妖力を篭めても動きませんよね?」
「この霊石は山の洞窟の鍾乳石を加工したものでな、妖力の干渉を受ける不思議な岩じゃ」

この岩を使い天魔は、妖術の基礎である『妖力を込める』という感覚を養わせていた。

「初めてにしては上出来じゃったぞ」
「そうですか?」
「だが、まだまだじゃ」

天魔は掴んでいた岩を宙に浮かび上がらせ、部屋を三周させてから最初の位置に戻した。

「これくらいは出来るようにならんとな」
「うう、頑張ります」

実はこの岩、動かすには繊細な妖力の制御を要求されるため、中級の天狗でも思い通りに動かすのに相当難儀する一品だった。
それをはたては初日で跳ねるところまでやって見せていた。
天魔は内心、はたての素質に大きな期待を寄せていた。

「片付けをしたら今日はもう帰っても良いぞ」
(あれ?)

この時はたては、天魔の様子が普段と違うことに気付いた。

「ひょっとして、疲れてますか?」
「ん、まぁ最近肩こりがな」

疲労の正体は今日の会議による心労なのだが、適当な事を言って誤魔化した。

「よろしければお揉みましょうか?」
「そうじゃな。では後で頼もうか」

どこか気恥ずかしそうに頬を掻きながら、自室に戻っていった。

「さてと」

はたては言いつけ通り、部屋の片づけを始める。







(この岩は土蔵だっけ?)

部屋を一通り片付けて、あとは庭にある土蔵に霊石を戻すだけとなった。
靴を履き、土蔵へ向かう。

「この場所で良かったっけ? うん良いはず、多分」

用途のわからぬ様々な道具が納められた土蔵。その片隅に岩を置いてその場を後にした。

「冷たっ」

土蔵を出てすぐ、はたての頬に冷たいものが触れた。
見上げれば鉛色の空から、申し訳程度の量の雪がぽつりぽつりと舞っていた。

「もうそんな時期なんだ」

寒い時間と温かい時間が混在する中間期の終わりを告げる雪が、はたての髪に触れては溶ける。

「寒いのは嫌だなぁ、暑いのも嫌だけど」
「同感ね」
「…静葉さん」

屋敷の門の下に古武術の師範をしてもらっている秋静葉が来ていた。

「今日も鍛錬かしら? 精が出るわね」
「天魔様に御用ですか?」
「いいえ。はたてさんによ」
「私に?」
「冬も本格的になってきたからお別れを言いに来たの」

別段、冬眠するというわけではないが、次の秋まで殆ど家に篭りきりになるため、世話になった相手に姉妹で手分けして挨拶回りをするのが、毎年の恒例だった。

「じゃあ、天魔様も呼んで来ますね」
「いいのよ。天魔様からは『自分の所に挨拶は不要』ってずっと昔に言われてるの。あの人はあの人で色々と思うところがあるみたいで」

手に平に落ちる雪を寂しそうに見つめながら静葉は言った。

「ごめんなさいね。貴女にもっと秋式防衛術を教えたかったのだけれど」
「すごく、残念です」

ようやく静葉の特訓にも慣れて、これから本格的に鍛えてもらえる矢先の、突然の別れだった。

「静葉さんに鍛えてもらえば、自分にもっと自信が持てると思ってたんですけど…」
「はたてさん、貴女は何歳の頃に、夜道を一人で歩けるようになった?」
「えっと」

急な質問に、はたては考え込む。

「十二歳くらいかな? もっと遅かったかも」
「生まれて初めて、勇気を出して自分の意思で夜道に一人で足を踏み入れた時の事を覚えてる?」
「なんとなくですけど」
「その時の気持ちを思い出せば、どんなものにでも挑戦できるはずよ」

静葉ははたての胸を指差した。

「貴女には才能がある。そしてその才能を発揮するための力を、天魔様との鍛錬でしっかりと身につけた。あとは覚悟だけ」
「覚悟?」
「そうよ。『体』『技』は揃ってる。あとは『心』がちゃんと定まれば、この体は貴女の期待に応えてくれるわ。暗闇にも恐れず踏み込む勇気と覚悟を持ちなさい」
「踏み込む…」
「ちなみに、秋式防衛術の戦闘理念は『不当な攻撃には正当な報復を』よ。覚えておいて」
「すっごいカウンター狙いな理念ですね」












静葉と別れを交わして、天魔の書斎までやってくる。

「失礼します」

襖を開けると、子供用の脚が短い机に向かい、同じく子供用の椅子に座って書類に判を捺す天魔の姿があった。
何も知らぬ者が見れば、子供がお絵かきをして遊んでいるようにしか見えない。

「門で話声が聞こえたようじゃが?」
「静葉さんが、今年のお別れを」
「そうか。道理で今日は冷えるワケじゃ」
「どうして挨拶はいらないんですか?」
「歳を取ると別れという言葉に敏感になってしもうてな。お二人の気持ちを無碍にするようで悪いとは思っているのじゃが」

古の時代から多くの同胞を見送ってきた天魔。
山が静寂に包まれるこの時期に別れの言葉を聞くと、嫌でも死別という単語が頭に浮かび、過去の辛いことが思い出された。

「肩、お揉みしますね」
「そういえばそんな話をしておったな。では頼む」

口ではそう言いつつも、その言葉をしっかりと覚えており、楽しみにしていた天魔。
仕事中はまだかまだかと足をずっとバタつかせていた。

「気持ち良いですか?」
「悪くない。このまま続けてくれ」
「良かった。誰かの肩を揉むなんてこと殆ど無かったから」
「親の肩は揉まなんだのか?」
「二人とも早くに死んじゃいましたから」
「すまん」
「いえ」

気まずい沈黙が、二人を包む。

(空気が重い、何か話題を振らねば)

この空気を変えるため、ふと気になったことを彼女に投げかけた。

「ところでお主。付き合っている男はいるのか?」
「……いません」
「そうか」

再び沈黙。

(まずいぞ。また止まってしまった。何でも良い。話を続けねば)

この直後、苦し紛れの放った言葉を天魔は後悔することになる。

「なら見合いとかせんか?」
「ふぇっ!?」

まったく予期していない言葉に、はたての手に自然と力が篭る。

「まだ早いと思うがの、お主もいずれ嫁ぐ身じゃ。今の内に男を見る目を養っておいて損は無いぞ? いやな。決して孫…じゃなくて、お主の子の顔が見たいわけではなく…イデデデデデ!!」
「お、お見合いだなんてそんな!」

取り乱したはたての手が、天魔の肩を無意識の内に握り締めていた。

「いだだだだだだだだだだ!!」
「そ、そもそも私、誰かと付き合ったことすらまともに…」
「あだだだだだだだだ!!」
「結婚っていったらアレですよね! 当たり前のように手を繋いで、当たり前のようにキスなんかして、当たり前のように夜を…」
「ぎゃオオオオおおおおおおおおおおおおおおお!!」

鍛えられ握力が段違いに向上した手は、天魔の無防備な肩に深刻なダメージを与えていた。

「じょ、冗談じゃ! 少しからかっただけじゃ! 真に受けるでない!」
「そ、そうですか。良かった」

はたての手から力が抜ける。

「おごぉぉぉぉ…」

ようやく開放され、机に突っ伏して小さく悶える天魔。
冷静さを取り戻したはたては、自身のしでかしたことを理解する。

「あの、その…ごめんなさい」
「気にするな、からかった儂にも非はある。雪が本降りになる前に、今日はもう帰ると良い」
「はい、では失礼しますね」
「気をつけてな」

はたてが部屋を出るのを見届けてから、全体重を椅子に預ける。

「何をやっておるのじゃろうな、儂は」

天魔は恐れていた。はたてがいなくなり、自身の血縁者が途絶えることを。
はたてを失うのは怖い、同時に血縁者がいなくなり、自身に近しい者が消えることも無意識の内に怖れていた。
だから見合いの話を出し、世継ぎなどというば馬鹿げた話題を口走ってしまった。

「はたての生涯に、儂がどうこう口出しするなどお門違いも甚だしいわい……しかし、はたての旦那か、想像もつかんな」

あの極度の人見知りを娶る男が果たしているのかと妄想を巡らせる。

「顔は良いからのう、性格が今よりもっと明るくなれば、引く手数多になるじゃろうな」

男と付き合うはたての姿は何とか想像できた。次はどんな男なら彼女を任せられるかを考える。

「儂よりも強い男でなければ、交際は認められんな」

はたてに交際相手が出来るのは、まだまだ先のようである。
















天魔の屋敷を去ったはたては、椛の家の玄関をノックしていた。

「椛ー」
「いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思ってましたよ」
「どうしたのその唇? 赤いよ?」
「何でもありません。干し肉と間違えて朱肉を噛んだだけです」
「どんな状況?」

天魔と『椛から一本を取れれば 本格的に剣の稽古をつける』という賭けをしたはたては、一週間ほど前から椛に挑んでいる。
最も、今のはたての腕前では挑む以前の問題であるため、椛から上達のための稽古をつけて貰っている状態である。
毎日とはいかないが二日に一回ほどの間隔で二人は会っていた。

「少し歩くと開けた場所があります。今日はそこでやりましょう」

『どんな足場でも剣が振れるように』という椛の持論から、鍛錬の場所をいつも変えていた。

「え? やるの? 雪降ってるのに?」

はたては椛の勉強だけを見るつもりでやって来ていた。
この天候ではやらないと思ったが、どうやら椛には関係ないようだ。

「雪が降ってきて寒いから、なんて理由で敵は待ってはくれませんよ?」
「私が敵なら雪降ってる日は休む」
「まぁまぁ。寒い時の体を動かし方は、知っておいて損はありませんから」

前回の稽古ではたてが家に置いていった木刀を持って玄関から出た椛は、今日の練習場所まで案内する。

「じゃあまず素振りからいきましょうか」
「昨日は家で鏡を見ながら振ったから、フォームは良くなったと思う」
「それは楽しみです」

その自主錬の成果を見せるべく三十回木刀を振る。

「どう?」
「…」
「なんで顔を手で覆うのっ!?」
「今日は寒いですし。まぁ…」
「やめてそういうフォロー!」

大勢からその才能を期待されているはたてだが、何故か剣術という部門においては全くと言って良いほど素質が無い。
仮に十年続けても、半年稽古しただけの白狼天狗の子供に勝てるかどうか怪しい。





「そういえばコレってどう思う?」

練習メニューを一通りこなした後、椛が見ている前で、握っていた柄を180度回転させ持ち変えた。

「逆手持ちですか?」
「変かな?」

以前、文に詰められた時に咄嗟に振った逆手。

「意外としっくりくるんだけど。片手で持つからカメラも一緒に持てるし」
(素人が逆手か)

逆手の長所と短所を知り尽くしている椛としては、はたてに薦められる型ではなかった。

「なんか皆して真手の評判が悪いみたいだから」
「だから逆手持ちの方が適正があると思ったのですか?」
「そうだよ」
(よし、諦めてもらおう)

生兵法は怪我の元という諺があり、戦場においてその言葉が正しいことを経験している椛は、即刻止めさせようと思った。

「では今から私の攻撃を防いでみてください」
「え?」
「大丈夫、寸止めにしますから」

了解も得ず、椛は飛び掛った。

「ヤァッ!」
「わ!」

不意打ちに近いそれを、はたては咄嗟に受け止めた。

「お、止められてる?」
「器用なのか、不器用なのか、相変わらずわからない方ですね貴女は」
「それって褒めてるの?」

思わぬ収穫を得た後は、勉強の時間に移った。
ここで二人の師弟関係は入れ替わる。





「できました」
「じゃあ採点するから待ってて」
「お願いします」

一週間ほど前、はたてが天魔と賭けをしたのと同時期に、椛は大天狗から隊長昇格試験を受けるよう命じられた。
試験内容は実力と学力を測るのだが、椛はこれまで学問とは無縁の生涯を歩んできたため、はたてに教えを乞う事にした。
椛が剣術をはたてに教え、はたてが学問を椛に教えるという、持ちつ持たれつの関係が成立していた。

(うん、前に間違えた所がちゃんと直ってる)

この調子なら、昇格試験までになんとかなりそうな気がした。

(椛は上達してるのに、私はなぁ)

不甲斐ない自分に対して、思わず溜息が漏れる。
この時ふと、今日静葉と会話した内容が脳裏を過ぎった。

「ところで、椛は何歳の頃に、夜道を一人で歩けるようになった?」

ただの好奇心で訊いてみた。

「物心がついた頃にはすでに歩いていたような気がします」
「そうなんだ。私なんて十二歳くらいまで、怖くて夜道を歩けなかったよ。夜道が怖くなくなるまでとても時間が掛かった」

少しずつ出歩く回数を重ね、慣れていくことで恐怖を薄れさせていたのを思い出す。

「やっぱり椛はすご…」
「すごいですねはたてさんは」
「なんで?」
「私は今も怖いままですから」
「え?」

意外な言葉だった。

「歩く時、あの暗闇の中から自分を害するモノが飛び出してくるのではないか、食い殺そうと待ち伏せしているのではないかと、この歳になっても不安でたまりません」

実際にそれに似た経験があるのだろう。
だから夜道に対してそのような恐怖を抱き続けているのだとはたては思った。

(苦労してるんだなぁ、私と違って)
「はたてさんは優しいですね」
「どうして?」
「白狼天狗に親身になってくれる鴉天狗なんて、はたてさんくらいですよ」

その表情から、彼女が何を考えていたのかを椛は読み取っていた。

「はたてさんみたいな方がこの山の幹部になってくれれば、私達が肩身の狭い思いをしなくても済みそうなんですがね」
「私なんかより、文の方がよっぽど白狼天狗のことを考えてるよ……あ、そうだ」

文の名前が出たため、椛に尋ねることにした。

「そういえば最近、文に会った?」
「いいえ。はたてさんは?」
「私も全然」

両者とも、とある一件で文と顔が会わせ辛くなっていた。
一週間以上、文とは会話をしていない。
山で偶然文を見かける事が何度かあったが、話しかけようかどうか迷っている内に、文は姿を消してしまっていた。
お互いがお互いを避けているようで、後味が悪かった。

「次見つけたら、話かけてみるね」
「私もそうします」

お互いにそう約束を交わして、はたては途中だった採点を再開させる。

「ん? 椛。この問題の回答なんだけど」
「どうしました?」
「歴史の『彦山豊前坊が生前残した有名な言葉は?』って問題」
「ああ『盛りのついたブスほど厄介なものは無い』って答えた問題ですか?」
「わからないからって、テキトーに書いちゃダメだよ」
「真面目に答えましたよ? 生前、あの方の口癖がそれでしたし」
「違うよ。『天狗はいつの時代においても常に最新、最強たれ』だよ」
「そんな馬鹿な」
「常識的に考えたらそうだよ……あれ?」

問題の解説欄に注意書きがあるのに気づく。

「他の回答として『盛りのついたブスほど厄介なものは無い』も可って小さい字で書いてある」

さすが大天狗様が監修してるだけあった。



守矢神社。
はたてが椛の採点を行っている頃。文は守矢神社にやって来ていた。
今日行われた会合の内容を神奈子に報告するためだ。

「ダム賛成派が増えました。良い展開です」
「どうしてそんな事わかるの? 会議所には近づけないんでしょう?」
「こう耳を傾けていると、風が声を運んできてくれるんですよ。風を操れば、どんな遠くの音だって拾えます」

耳を欹(そばだ)てる動作をしながら、自信満々に言い放つ。

「ダム賛成派は『低コスト』と『短期間』を売りにダムを推しているようですね」
「まぁ小規模な重力ダムだからね。設計図があるから、あとは人数しだいよ。気掛かりなのは樹海を彷徨う怨霊達ね」
「怨霊ですか?」

以前、あの樹海で出会った白狼天狗の少女の霊を思い出す。
怨霊と呼ぶには余りにも可憐な少女だったが。

「あそこにはこの山に恨み辛みを残して死んだ白狼天狗の怨念で溢れている。それを放置したままダムを完成させたらどんな厄災が起こるかわからないわ」
「何か対策は?」
「なぁに、地鎮祭をやれば追っ払えるよ」

神奈子ではなく、彼女の隣にいた諏訪子が答える。

「ただ、形式だけで済ませる普通の地鎮祭じゃアレは祓えない、本格的にやる必要がある。それもこっそりと」
「こっそりですか?」

過去の悪行を掘り起こされたくない天狗の重鎮に『ここに眠る大量の白狼天狗の霊を鎮めたいから、そのための地鎮祭をする』と伝えたら、話が拗れるに決まっている。
だから承諾を得ずにこっそりやってしまうつもりでいた。
諏訪子の言葉に大きく頷いてから、神奈子は口を開く。

「やるならダム開発が決まる前に実行したい。開発が始まればあの土地で大げさなことは出来ないからね」
「もしも投票でダム反対の結果が出たら、ただの徒労ですよ?」
「構わないよ。この山はいずれ私達が中心になる。そんなとき、すぐ近くにあんな穢れた場所があったら不愉快で仕方が無い」
「…」
「お、神奈子。コイツ何か言いたそうな顔してるよ?」
「別に何も。では、私はこれで」
「他に奴に勘付かれるんじゃないよ」
「心配御無用」

雪が降りしきる中、傘もささずに文は飛び去っていった。

「どう思うアイツ?」

諏訪子は神奈子に、文が信用に足る存在かを尋ねた。

「首に鈴はつけてあるわ」
「お前が思っている以上にアイツは優秀だよ。鈴を鳴らさないで歩くくらい、ワケないと思うけど?」
「もちろん用心はしている。しかし裏切りがバレて一番都合が悪いのは文よ」
「そりゃあそうだけどさ」
「天狗一匹が出来ることなんてタカが知れているわ」
「神奈子がそこまで言うなら別にいいさ」

諏訪子が顔を上げる。
文の姿はもう見えない。




「さて。ちゃんと録音できてるでしょうか?」

飛びながら鞄に手を入れて、小さなテープレコーダーを取り出し、耳に近づけて再生ボタンを押した。
先ほど二柱した会話が鮮明に聞こえた。

「うん、今回もバッチリですね」

満足げに頷き、加速した。














神社を出た文は樹海までやって来た。

(今日も、会えませんかね)

椛の先輩を名乗る少女の霊に会って以来、文はここに何度も足を運んでいた。
しかし一度会ったきり、それから彼女とは再開を果たせていない。

(あれは私が見た幻覚だったのでしょうか)

情緒不安定な時に自分が見た幻。そう考えたら、本当にそんな気がして堪らなく不安になる。その時だった。

「ここは立入禁止って言ったじゃないか鴉天狗さん」
「ッ!」

大げさとも思える動作で声がした方を向く。

「こんな寒い日に来てくれたのに、居留守使うわけにはいかないからね」

可愛らしい笑みを浮かべた白狼天狗の少女が倒木に腰掛けていた。

「まあ立ち話もなんだし、座んなよお姉さん」

肩にかかるしなやかな銀色の髪を揺らしながら、隣を叩いて座るよう促す。
畏まりながら文はそこに座った。

「で、何? ここ沈めちゃう系?」
「大昔に死んだ人が今風の言葉使わないでくださいよ」
「それで沈むの? 沈めないの?」
「沈むと思います、今のままだと」
「そっか…」
「やっぱり怒ってますよね?」
「私はそれほどでも無いけどね、他はわかんないな」
「他ですか?」

白狼天狗の少女は地面を指差した。

「そう。この土地の地面を一枚剥がすと、そこはもう魑魅魍魎の坩堝(るつぼ)さ、無念や苦痛、恨みや後悔の念を抱えた怨霊がわんさかいる。
 ここをダムにするのなら、そいつらをなんとかしないと。でなきゃ水難事故ワースト1位の名所になるだろうね」
「二柱もその事は察知しております。きっと近いうち、二柱によってここの怨念は全て祓われるでしょう」
「まあ私自身ただの残留思念だし、本当の私の魂はとっくの昔に消えちゃってるから、今更消えることに恐怖は無いから良いけど」
「失礼を承知で一つ訊いてもいいですか?」
「ドンと訊いとくれ。生前のスリーサイズや経験人数、なんだって答えちゃうよ。まあ経験人数って言っても、プライベートより仕事で股開いた数の方が多いけど」
「先輩さんはどのような最期を迎えたのですか?」
「本当に失礼な事訊くね。ちょっと引くよ」

その言葉通り、尻一つ分文から遠ざかった。

「別に話してもいいけど、面白くないぞ?」
「構いません」
「えーと、どういう状況だったっけ……ああ、そうだ大天狗の命令で、不正商人を椛と一緒に始末した時だ」
「椛さんも一緒に?」
「強かったぞあいつは。何度も一緒に仕事したけど、アレにはゾッとする怖さがあった。死んでも戦いたくないね」

椛が居たから色々な修羅場を抜けられたと彼女は思う。

「おっと話が脱線したね。それで、その不正商人を始末する時に深手を負っちゃってさ。これから医者に行くって時に大天狗が現れた。私達を始末しに」
「なぜ貴女方を? 依頼主じゃないですか?」
「元々、大天狗は私等を商人殺しの下手人として、抹殺するつもりだった。よく考えればわかる事だった。権力を持ってた偉い商人が殺されて、それが迷宮入りになったってんじゃ、大天狗の沽券に関わる」

だから犯人をちゃんと用意しておく必要があった。

「その時に大天狗が椛にこう言った『そいつを差し出せばお前は見逃す』って。きっと大天狗様なりの慈悲だろうね」
「それじゃあ椛さんは先輩を?」
「違う違う。椛はそんな薄情な奴じゃない。私は自分の意思で椛の肩から離れた」

そして彼女は絶命した。

「私の死体は裸にひん剥かれてから、商人の家の前で磔の晒し物にされて、ウジが湧くようになったらこの樹海に捨てられたよ」

だから彼女の霊はここにいる。

「…」

自分の最期を明るく語る彼女に、文は言葉を失う。

「ダムの償いは必ず」
「よしとくれ、死者に供え物をする以上に無駄なことなんて無いよ。私はむしろ、ここがダムに沈んでも良いとさえ思ってる」
「何故ですか?」
「あいつ、たまにココに来るんだけどね。いーーつも思いつめた顔してんだよ。昔のことを何時までも引きずってる。後ろを向いて、後ろ向きに歩けば、一応前には進めるけどさ。やっぱ前見て歩いた方が楽しいじゃん

?」

椛にとって、ここは過去の象徴である。樹海が無くなればひょっとしたら前を向いてくれるかもしれないと彼女は考える。

「死後、椛さんに会ったことは?」
「無いよ。会えるってわかったら、自殺してコッチ側に来るかもしれないから」
「どうして椛さんにそこまで?」
「後輩の面倒を見るのが、先輩の務めだからね」

彼女と会話をすればするほど、椛がこの少女に心を惹かれた理由がわかった。

「残念です。もし貴女が生きていたら、良い友人になっていた気がします」
「私が生きている未来っていうのは、椛が死んじまってる未来だよ。あの時はどっちかが死なないと生き残れない状況だったから」
「それはそうですけど」
「私と椛、どっちが生きていた方が良かった?」
「そりゃあ椛さんですね。貴女のような積極的な性格の方では、はたてが萎縮してしまいます。何より私自身、椛さんが居なければ変われなかった」
「それで良い。無いモノねだりは虚しくなるだけだ」

悪戯が成功した子供のように笑うと、彼女は姿を消した。

「さて、行きますか」

彼女に会えるのは、今日がもう最後のような気がした。























一回目の会合から、さらに一週間が経過した。
この日が最後の会合となり、あとは来週の投票日を控えているだけだ。

日の沈みかけた夕暮れ時、早苗は神社の灯篭の蝋燭に、火を灯して回っていた。
最後の灯篭に火を着けたのを見計らい椛は声をかけた。

「こんばんわ」
「あら椛さん」

神社に来る前、今日行われた会合の結果を大天狗に聞きに行った椛は、ますます状況が芳しくないことを聞いた。ダム賛成派がついに5割に達したらしい。
その事実に居ても立ってもいられなくなった彼女は、自然と足を神社に向けていた。

「神奈子様、諏訪子様はいらっしゃいますか?」
「生憎と今お出かけになって…」
「わっ!」
「きゃっ!?」

早苗の両肩を、突然現れた諏訪子が掴んだ。

「たーだいま早苗ー♪」
「もぅ、びっくりしたじゃないですか」
「ごめんよ、早苗が可愛いもんだからつい、ね」

諏訪子に続き、神奈子も姿を表す。

「帰ったよ早苗」
「神奈子様もお帰りなさいませ」
「おや、こりゃまた珍しい客だね」

全てを見透かしたような目で椛を見る。
さっきまで二柱は文と人目に着かない場所で会っており、今日の会合の結果を聞いていた。

「上がっていきなさい」

椛は社務所の一室に通された。
神奈子と諏訪子は和室の上座であぐらを掻き、椛は下座で正座する。

「来た目的はわかるわ。ダムの件ね?」
「なぜあの場所を選んだのですか?」
「失礼だな。その言い方だと、まるで私達が放火したみた…」
「理由は色々とある」

とぼけようとした諏訪子の言葉に、神奈子の声が被さった。

「おい神奈子!」
「構わないわ。明確な証拠が無い限り、天狗は私達をしょっぴけない。私達がコレに何を話そうと、後で『冗談だった、からかっただけだ』と言えば全てうやむやになる話よ」

その余裕から、神奈子はあっさりと自白したのだ。

「理由とはなんですか?」
「あの樹海は山の暗部だから。ダムに沈めたいと思う重鎮と、思わない重鎮が出来て、そいつらが内部対立するかもしれないでしょう?」
「仲違いさせる為だけに山を焼いたのですか」
「もちろんそれだけじゃないわ。ダムが出来れば私等の技術力を誇示できるし、ダムが観光地化して人間が見物しに来るようになればもっと信仰が得られる。良いこと尽くめよ」
「そんな事の為に…」

相変わらず、自分達の都合で平気で他者を踏みにじるこの神社のやり方に、怒りがこみ上げてくる。

「その顔。お前さんはダムに反対のようね」
「当たり前でしょう」
「もし、ダムに沈まない方法が一つだけあるとしたらどうする?」
「あるんですか!?」

思わず身を乗り出した。

「簡単よ。この山に住むすべての天狗が私達に心の底からひれ伏せば良い。そこから生まれた膨大な信仰を使えば、土着神の力をもってこの山を水害から守ることなんて造作も無いわ」

そうなればダム自体が必要なくなり、樹海は現状の姿を保てる。

「そんなこと不可能に決まっているでしょう」

期待して損したと、すぐ脱力した。

「ところでこれ、覚えているかい?」

神奈子との会話が途切れると、諏訪子は彫刻刀を取り出した。
それを見た時、全身の毛が逆立った。
かつて二柱に、天狗社会を裏切り仲間になれと言われ、断る度に生爪を剥がされた。その時に使われた凶器だった。

「あの時、神奈子がお前を勧誘したのは、このダム計画があったからさ」

神奈子は椛を広告塔にしようと考えていた。

「山火事が起きて、神奈子がダムの提案を大天狗に持ちかけてすぐ、お前さんの生い立ちと、あの樹海の過去を天狗社会に暴露して、天狗社会を引っ掻き回してやろうというのが当初の予定さ」
「あそこに埋まってる白狼天狗に同情した連中を大勢こっちに引き込んで、そいつらから得た信仰で、水害を必要最低限防げる土地に強化、それでダムが不要になるっていう感動のシナリオを用意してたんだけどね」
「馬鹿だねぇ、あの時こっちに寝返っておけば、故郷が守られてたのに」

真面目に話す神奈子の横で、意地悪く諏訪子は笑う。

「そんなお前に最後のチャンスだ」

諏訪子は彫刻刀を椛の前に放った。

「それで目ん玉エグり出せ。そうしたらダム計画を中止にしてやるよ」
「おい諏訪子、何を言って…」
「いいじゃないか。千里先が見られる目、神の供物・生贄として、かなりの上物だと思うよ?」
「…二言はありませんね?」
「いいからさっさと抉れよ」

刃先を見つめて、深呼吸を繰り返す椛。
椛が息を止めた瞬間、彫刻刀の刃先が錆びて崩れ落ちた。
神奈子が溜息を吐く。

「諏訪子なりの冗談よ、真に受けちゃ駄目。もう帰りなさい」

神奈子は立ち上がると部屋を出る。

「そんな濁った目なんかいるかバーカ」

諏訪子がその後に続いた。

椛を残し、二柱は部屋を出て行った。
二柱は並んで廊下を進む。

「私が刃物を壊さなきゃ。本当に目玉をエグり出してたわよ」
「別に良いだろあんな奴どうなっても。それよりもあの彫刻刀、早苗のだったんだぞ?」
「たまにアンタとは会話が成立しないね」
「お互い様だろそんなの」

険悪な雰囲気のまま、早苗が夕飯の支度をする台所へと向かった。













社務所を出て、神社の石段を下ると、そこで椛を待つ人物がいた。

「守矢神社に行くとか何考えてるの?」
「…いてもたってもいられず。すみません」
「まあいいわ」

意気消沈した椛を見て、大天狗はそれ以上言えなかった。

「やはり監視されてたんですね」

落葉した杉の木の枝にとまっているカラスを見る。
椛の視線を受けると、カラスは逃げるように飛び去っていった。

「うん、モミちゃんは今回、私の中ではマーク対象だから。ごめんね」
「いえ」
「私、夕飯まだだから付き合ってくれる?」
「生憎と今は素寒貧です」
「いいよ。出したげるから」

神社から天狗の集落に向かう途中に、ぽつんと立っている屋台があり、大天狗の足がそこで止まった。

「お忍びで使う屋台よ。大将も信用できるし、滅多に客も来ないから天魔ちゃんと内緒話をする時とかに良く使うの」

暖簾をくぐり大将と目が合う。年老いた風貌の鴉天狗だった。
初めて見る天狗だが、彼から漂う雰囲気で現役の頃はそれなりの地位に居たのだと推測できた。

「二柱とは、何を話してきたの?」
「ダムは本当に必要なのかを訊いてきました」
「それで?」
「天狗社会に揺さぶりをかけるのが最大の目的だと。そしてダム建設が決まれば山に守矢の力を誇示でき、人も集まるため願ったり叶ったりだと」
「ほんっとに知能犯ねあいつら」
「このままじゃ本当に…」

大天狗は椛にずいっと近づき、とっくりを差し出した。

「呑んで忘れちゃいなさい、今だけでも」
「しかし」
「四六時中、同じことばかり考えてちゃ、身が持たないわよ?」
「…いただきます」

少し迷ってから、お猪口に注がれた酒に軽く口をつける。

「良い香りですね」
「でしょ? 防腐剤とかまったく使ってない高級な生酒よ。悪酔いしないからドンドンいっちゃいなさい」
「じゃあもう一杯」
「そうこなくちゃ。大将、魚焼いて。あとはお任せで適当に」
「へい」

それから二人は会話もそこそこに、質の良い料理に舌鼓を打つ。
ひとしき食べ終え、腹が膨れた頃、椛は大天狗から視線を向けられているのに気付いた。

「どうしました? 私の顔なんてそんな珍しいものじゃないでしょう?」
「いやね、モミちゃんと初めて会った時のことを思い出してたの」

橋の下で痩せ衰えていた白狼天狗の少女。蝿がたかり、最初見た時は死体だと思った。
当時の彼女なら、たかが白狼天狗と見捨てていたが、その時にふと、数週間前に全滅した白狼天狗の集落のことを思い出した。
その件に間接的に関わっていたという負い目から、思わず彼女を拾い上げていた。
彼女を哨戒部隊が泊まる詰所に雑用として預けたのだが、まさかその後、自身が秘密裏に運営していた組合に入ってくるとは思いもしなかった。

「あの時の子がずいぶんと大きくなったなーって」
「感謝してますよ大天狗様には」
「でもって、恨んでもいるでしょう? 死んだ方がマシだって思えることを一杯させてきたし」
「…」

しばしの沈黙。
少し間をおいてから、椛は空になったとっくりを持った。

「もう一本、開けてもらってもいいですか?」
「そうね、今日はどんどん飲もう。大将、大瓶一本開けちゃって。あとそれに合いそうなツマミ見繕って」



数十分後。



「だーかーらーいいですかー大天狗様!」
「ひっ!」

すっかり出来上がった椛はドンとテーブルを叩いた。

「この際だからはっきりと言いますけどねぇ! その身長じゃモテませんよ! なんですか7.5尺って! 斬馬刀ですか!」
「んなこと言ったって、これでも一族の中じゃ低い方だし、親戚からよく『小さくて可愛いね』って…」
「その身長で小さいって煙突ですか貴女達の祖先はッ!?」
「ち、違います。れっきとした天狗で…」
「知ってますよんなこと!! 真面目に答えないでください!!」
「うひーモミちゃんが意外と酒乱だー、言ってることがメッチャ理不尽だー」

真っ赤な顔の椛に、戦々恐々とする大天狗。

「もっと色々と言わせてもらいますけどね!」
「はい、はい」
「貴女様はいつも~~~フニャ」
「えっとモミちゃん? どったの?」

テーブルに突っ伏して、椛は寝息を立てていた。

「寝てる?」

絡んできた酔っ払いが潰れて、ようやく緊張から開放される。

「あーびっくりした」

一人、残った酒をお猪口を傾けた。

「この世に大天狗様にあんな口がきける者がいたんですね」
「きっとこの子だけだろうね」

洗い物をしていた大将がそう言った。その額には冷や汗の玉がいくつも滲んでいる。
椛がいつ大天狗に殺されるのかと、気が気でなかった。
大天狗が最も気にしている身長のことを指摘して、無事でいた天狗を見たのは初めてだった。

「付き合ってよ大将。一人で飲むほど寂しいことは無いわ。せっかくだから酔っ払った大将も見せてよ」
「ご勘弁願います。大天狗様の隣じゃ、樽で飲んでも酔えませんよ緊張して」
「むー」
「それが出来るこの白狼天狗は、一体何者なんですか?」
「何者なんだろうね?」

大天狗は首を傾げた。拾う前の椛のことを何一つ知らなかった。




河童の集落。
酔った椛を大天狗が負ぶって岐路に着いたその頃。

「にとりーー、いる?」

ノックしてから金庫のように分厚い鉄扉を開けるはたて。

「いらっしゃい……って、一人でここに来たの?」
「うん、そうだけど?」

今、二人がいるのは地下の工房。『誰にも邪魔されない空間』をコンセプトに、にとりが設計・建築した作業空間である。
そのため、ここに来るまでの通路には侵入者撃退のための罠がいくつも張り巡らされている。

「あの道を本当にたった一人で? 怪我一つ負わず?」

攻略される度に、より強固で強力で理不尽な装置を追加していった。
今のこの通路は、かつて三人で挑んだ時よりも格段に難易度が増している。
それを独りで突破してやってきた彼女に驚嘆する。

「私の最高傑作。クマ四天王を倒したの?」

クマ四天王とは、侵入者を殲滅するためににとりが最近開発した侵入者撃退ロボである。
怪力を誇り、ハチミツを原動力として動く熊乃風参。
緩急をつけた動きで相手を惑わし攻めに転じる理羅津熊。
音も無く敵の背後に忍び寄る熊門。
恐ろしい見た目とその口から放つ咆哮が敵を怯ませる眼論熊。
この四体、最高の布陣である。

「壊しちゃった。ごめん」
(変ったなぁこの子は)

出会ったばかりの頃を思い出す。

(自信が無さそうな態度は相変わらずだけど、俯かなくなったし。あとオーラっていうのかな? 徳が上がったというのか、よくわからないけど何か変った)

当初あった頼り無さそうな雰囲気はもうどこにも無かった。

「それで今日は何の用なの?」
「最近カメラの反応が悪いから、見てもらおうと思って」
「今やってるのがもうちょっとで終わるから、テキトーに掛けて待っててよ」
「うん、わかった」

腰掛けるのに程良い段差を見つけ、そこに腰を下ろす。
にとりは四角い箱の蓋を開け、作業を再開させた。

「そういえば最近バラバラだね。少し前まではいつも一緒に行動してたのに」

視線を手元の機械に固定した状態で、はたてに話しかける。

「何かあったの? 喧嘩したとか?」
「そういうわけじゃ無い……と思う」

姿を見せなくなった文、勉強中に時おり思いつめたような表情をする椛と、自分の知らない所で何かが起きていることはわかる。
それをわかっていながら、どうする事も出来ない自分の無力さを痛感する日々がここ最近続いていた。

「まぁ、三人がつるむ様になった最初の頃は、逆にそれが不思議だったけど。『なんで一緒にいるんだろう?』ってよく思ったよ」
「どうして?」
「だって三人とも、向いている方向がてんでバラバラだったんだもん」
「向いている方向?」
「椛は過去をずっと引きずってるみたいだし、文さんは今が良ければそれで良いってスタンスだし」
「私は?」
「なんというか『明日から頑張る』って感じだった」
「あー、否定できない」

過去ばかり見ている椛、今を重視する文、未来に期待するはたて。
天狗社会の過去と今と未来を象徴する三人のように、にとりには見えていた。

「階級も違う、価値観もずれてる、お互いの欠点を補いあってるわけでも無い。でも一緒に居る。本当に不思議な三人だよ」
「言われてみればそうだね」
「もうすぐ開発中のコピー機も完成するからさ、その時はまた三人で取材に来てよ。独占取材させたげるからさ」
「ありがとう」

そこで二人の会話が途切れ、にとりが機械をいじくる小さな音だけが、部屋に反響する。





「んーー、まぁ今日はこんなところかな」

機械の蓋を閉めてから、大きく伸びをした。

「待たせたね」
「うん」

はたてから携帯型カメラを受け取ると、それを様々な角度から眺め始めた。

「あー、こりゃ湿気のせいだね」
「直りそう?」
「楽勝」

そう言って、はたてが見ている目の前で、彼女の携帯を解体していく。
部品ごとにされた携帯型カメラは、盆に乗せられて風が吹き出すダクトの前に置かれた。

「しばらくこのままにしておけば大丈夫だよ。水分が完全に蒸発したら、また組み直すよ」
「どれくらい待てば良い?」
「2~3時間くらいかな?」
「けっこうかかるね」

外に出て、また戻ってくるにしても中途半端な時間だった。

「仮眠とったら? 時間も時間だし」
「え? あ、もうこんな時間なんだ」

部屋の時計の針は深夜を指していた。
思い返せば、ここに挑んだは夕方頃だった。

「布団ならあっちにあるよ」
「そしたらにとりの分が」
「私はいいよ。修理しておきたいやつがもう一つあるから」
「近くで見させてもらっても良い?」

まだたいした眠気も無く。工房も一通り見て回ってしまい、手持ち無沙汰になったはたては、にとりの作業を間近で見たいと申し出た。

「いいよ。火花が出る作業じゃないし」

はたてが作業台まで来てから、にとりは風呂敷をあけた。

「ハト時計?」
「うん、ウチの村長が長年使ってるやつだけど。調子が悪いみたいだからって修理を頼まれたんだ」

時刻が刻まれた板を外すと、中の歯車が露出した。

「だいぶ痛んでる部品があるな」

にとりは調子の悪そうな歯車を取り出すと、それを金槌で叩き歪みを直してから元に場所に戻し、最後に油を一滴垂らす。
その作業を繰り返す。

「新しいのと交換しないの?」
「軋んだ歯車でも、こうして治療して油を注せばまだまだ現役さ」

戻された歯車はにとりの指に押されると滑らかに回りだした。

「確かに、時計全体のことを考えれば、古そうな歯車は全部新品に変えた方がいいんだよ。そうすれば不具合を起す確立がぐっと減るからね。でも椛たち白狼天狗を見てると、どうもそういう気が起きなくて」
「椛?」
「うん。昔、酒の席で椛が愚痴ってたんだ『危険な任務に就いて、そのまま使い捨てにされかけた事が何度もある』って。本当か冗談か知らないけど」

その話が、にとりのモノ作りに取り組む姿勢に、少なからず影響を与えていた。
部品一つ一つを大事にすることがモノ作りとしての正しい姿だと今のにとりは考えている。

「ああ、でもこの子はもうダメだな。今までご苦労様」

歯の一部が欠けた歯車を外し、労うように一撫でしてから、『リサイクル箱』と書かれた箱の中に大事に置いた。

「捨てちゃうの?」
「捨てないよ。溶かせばまた使えるからね。歯車としての役割が終わっても、また別で活躍できる場をちゃんと用意してあげなきゃ」
「愛だね」

「天狗社会もさ、愛のある社会であって欲しいよ」

小声でそう呟いたその言葉は、しっかりとはたての耳に届いていた。







三時間後、メンテナンスされたカメラが手元に戻ってくる。

「ありがとうにとり。急に来てごめんね」
「良いよ。また調子悪くなったら持ってきなよ」
「ありがとう」
「あ、そうだ」
「 ? 」

にとりがハッとして顔を上げた。

「文さんに会ったらさ、貸した道具を返すように言ってくれない?」
「何を貸したの?」
「音声を録音するテープレコーダーと、暗い場所でもフラッシュ無しで撮れる暗視レンズとか」
「なんかスパイアイテムみたいだね…わかった。伝えとく」
「お願いね」

安全な通路ではなく、ここに来るために通った危険な道を、はたては逆走して帰って行った。









にとりの工房を出た時、辺りは暗闇に包まれていた。

(長居しすぎた。もうすぐ朝になっちゃうな)

飛びながら、東の空が白んでいるのを確認して、直してもらったばかりの携帯型カメラを操作する。

「うん、ちゃんと反応する。これでやっと検索が再開でき……ッ!?」

画面に表示された映像を見て、減速した。

「やっと見つけた」

画面に映し出された景色は、ここからそう遠くない場所だった。



「文!!」

巨木の太い枝に腰掛けていた彼女に呼びかける。

「おや、はたて。どうしてここに?」
「ついさっき、ここで写真撮ったでしょ?」
「ええ。それが?」
「『文が今撮った写真』で検索をかけたら、ここの景色が写ったから」
「なるほど」

久しぶりの会話だった。

「今まで何をやってたの?」
「そんなことより、もうすぐ朝日が昇ります。きっと感動しますよ」

まるでその言葉が合図だったかのように、日の光が幻想郷に差し込んできた。

「すごい」

一日の営みが始まったことを知らせる優しい光。それに照らされ、山が暗闇の中から徐々に自らの姿を鮮明にしていく。
川が輝きだし、野鳥の鳴き声が聞こえて、今山が起床したのだと本能的にわかった。
この光景にはたては、言い知れぬ安らぎを感じた。

「椛さんが教えてくれたんです」
「椛が?」

ここは、引篭もっていたはたての説得に成功してまだ間もない頃、初めて自分に優しい表情を見せてくれた、文にとって思い出深い場所だった。
この景色を眺める椛の横顔を今も鮮明に覚えている。

「椛さんは、他の天狗よりもずっと辛い思いをしてきました」

天狗社会に利用され、裏切られ、弄ばれ、踏みにじられ続けた白狼天狗の少女。

「沢山の事に絶望していたはずなのに、この山を見限らなかった。それが不思議でしょうがなかったので何故かと尋ねたことがありました」

すると彼女はこの景色があるからだと答えた。
あの時は、単にここから見える景色が美しく、それに感動したのだと思った。
しかし、今なら彼女が言いたかった本当の意味がわかる。
文は山の東側を指差した。

「あの場所が何かご存知ですか?」
「えっと樹海だよね。昔に色々とあったっていう」

その回答に文は満足げに頷く。
ここからは、山の景色が一望できた。樹海もよく見える。

「山の東側に位置するあの場所は、今この時だけは明るくなってるんです」

あの樹海は一日中、日が当たらない場所という認識でいたはたてにとってその事実は小さな驚きだった。

「大切な者たちが眠る場所に、ちゃんと日が届いているこの瞬間の景色が、椛さんはたまらなく愛おしいのだと思います」

日陰者の椛が守りたいと言ったこの景色。
それが今、存続するかどうかの瀬戸際にある。

「貴女の身の安全のために詳細は伏せますが、今この山は八坂神奈子の引いた絵図面通りに動いています」
「何のこと?」
「最後の忠告です。しばらく大人しくしていなさい。少しでも不穏な空気を感じたら、深入りせずに真っ直ぐ家に戻る。いいですね?」

二、三週間前にも、同じようなことを言われたのを思い出す。

「でもまぁ今は、この景色を楽しみましょう」

文の厳しい顔が緩んだため、はたては緊張から開放される。

「うん。そうだね」

椛が愛したというこの景色を、胸に刻み込むことにした。

「私の他に椛も、文のこと気にしてたよ。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって。だからこの後、椛の所に…」

いつの間にか文は姿を消していた。
この日、はたては方々を探したが、とうとう文を見つけることが出来なかった。


樹海の存続を占う投票日は、一週間後である。











ついに投票日を迎えた。

「いよいよ今日だね」
「待ちくたびれたよ」

守矢神社。
鳥居の下に神奈子と諏訪子は居た。
午前中から重鎮たちが投票のために会合所へ集まるため。天魔と大天狗が不在になるこの時間に地鎮を行おうと決めていた。

「お待たせしましたー」

仕度を終えた早苗が玄関から出てきて二柱に手を振る。

「おい、どういうことだ?」

早苗の登場に驚いた諏訪子は神奈子を睨みつける。
近づいて来る早苗に聞こえないよう、声の大きさに気を付けながら神奈子を問いただす。

「私等だけでやるんじゃなかったのか?」
「巫女の力があった方が、確実だからよ」
「どうして私に相談しなかった?」
「したら反対したでしょう? 諏訪子は過保護だから」
「それだけ危険な相手なんだよ」

この状況まで持ってきてしまえば、いくら諏訪子が反対しようと早苗を連れて行くことが出来る。神奈子のその策は見事に成功した。
早苗がもう近くまで来たため、会話はそこで終わる。

「では参りましょうか」
「ああ、期待しているよ早苗」
「お任せください! お清めなんて昔から嫌ってほどやってますから!」

単純に土地の御祓いに行くとだけ言われた早苗は、ピクニックにでも行くかのような軽い足取りだった。

「妖怪の山の皆さんの平和のため、はりきって参りましょう!」

早苗を先頭に、守矢一家は樹海へと歩き出す。

「早苗になんかあったら承知しないぞ」
「そんなに早苗が大事なら、しっかりと番をすることだね。邪魔者が入らなきゃ、無事に成功する」
「で、あの鴉は?」
「文にも、樹海に誰も近づけないよう見張れと命じてある。先に向かわせたわ」











大天狗の屋敷。

「あー気が重い」

おぼつかない手付きで身支度を始める大天狗。
今日の結果が最悪なものになる未来を想像すると、憂鬱にならざるを得ない。
おかげでいつもよりずっと早く目が覚めてしまった。

(時間まだあるし、モミちゃんとこ寄ってから行くか)

食欲が無いことを従者に伝え、朝食を辞退してから玄関に向かう。

「おはようございます大天狗様」
「あら文ちゃん。おはよう」

玄関の戸を開けると、顔に営業用のスマイルを貼り付けた文が立っていた。

「これからお出かけですか?」
「うん。ちょっと野暮用で」
「投票、勝てるといいですね?」
「…何の話?」

動揺を顔を出さないことに自信がある大天狗だが、今の文にそれは通らない。

「惚けなくても良いんですよ? 全部知ってますから。守矢が放火したせいで樹海がダムに沈みそうなんでしょう?」
「なんで知ってんの?」
「取引しましょうか大天狗様」

怪訝な表情の大天狗を無視して、文は鞄を前に出した。

「もしもこの中に、守矢が放火犯の証拠となる写真や音声を録音したテープが入っていたらどうしますか?」
「それはすごいわね。守矢を堂々としょっぴけて、守矢が提案するダム計画は頓挫、守矢には賠償としてこれから作る新しい水路の費用を全額負担させられる」

樹海が守れて、守矢も排除できる。最高の展開である。

「そんな夢のような道具がこの鞄の中に!」
「でもお高いんでしょう?」
「そんなことはございません。大天狗様が今持っているモノと交換してくださるだけで結構です」
「交換?」
「大天狗様、貴女様の地位を私に譲ってくれませんか? 私、偉くなりたいんですよ」
「マジ?」
「ええ、マジです」
「それはちょっと出来ないなー」
「では今まで貴女がやった悪行を全部公表してください。そんで失脚してください。その後釜に納まるんで」
「それも無理」
「じゃあ大天狗様の首で我慢します」

笑顔のままそう告げた。

「えーと、聞き間違いかな? 私の首寄越せって言った?」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと切腹してくださいよ大女。介錯してあげますから」

表情を崩すことなく言い放つ。
直後、大天狗を中心として、周囲の温度が急激に下がった。

「取り消してくんないかな?」
「それは切腹に対してですか? それとも大女と呼んだことをですか?」
「両方だ!!」

大天狗は玄関の柱を掴み、まるで割り箸のように軽くへし折って軽々とぶん回した。
文は後方に跳んでそれを間一髪でかわす。

「ダムの投票が終わったら、もう一度返事を聞かせてください。貴女は怖いので椛さんを使いに出してください。椛さんには『あの場所にいる』と伝えれば、それでわかると思いますから」
「今死ね!!」

激昂し、槍投げのように柱を投擲する。
それも寸での所で文はかわした。

「逃がすか!」

新たな凶器として玄関の戸板を掴んだ頃には、文は塀の向こうへ消えていた。













椛の家。
大天狗の屋敷から逃げてきた文は、椛の家の戸を叩いていた。

「誰ですかこんな朝っぱらから…」
「どーも、ご無沙汰してます」
「文さん?」

たった今起きて、寝ぼけ眼のまま玄関を開けた椛だが、文を見た瞬間に眠気が吹き飛んだ。

「今までずっとどちらに行かれたんですか? 心配しましたよ?」
「取材で幻想郷のアッチコッチを。たった今、帰ってきたところです」
「あまり放浪が過ぎると、上層部に目をつけられますよ?」
「そうですね。気をつけます」
「折角ですがこれで」

ようやく会えて名残惜しい気も微かにしたが、今日が投票日ということもあり、誰かとおしゃべりするという気には到底なれなかった。

「まぁまぁ、そう言わず。朝食は食べましたか?」
「いえ、まだです」
「じゃあ行きましょうか。おごりますよ」
「…まあそれなら」

顔を洗い着替えて外に出た。





「ずいぶんと移動しますね」
「良いお店を見つけたんです」
「別に近場で良かったのに」

文に案内されたのは、鴉天狗が大勢暮らす集落である。
周囲の景観から明らかに浮いているハイカラな外装の食堂の扉を文は開けた。
店内には聞き慣れない音楽が流れていた。

「良い雰囲気でしょう? ここの店主がレコードの収集家でしてね。その日の天気や時間帯に合ったBGMを流してくれるんです」
「安くてたくさん食べられれば、あとはどうだって良いです」
「相変わらず現金な方ですね。まあそこが椛さんらしくて素敵ですけど」

テーブルに座ると、文が二人分の軽食を注文した。

「そういえば今日はなんだか、落ち着きがありませんね?」
「いえ、そんなこと」
「そんなにダムの投票結果が気になりますか?」
「ッ!?」

椛は大きく目を見開く。大天狗とは真逆の反応だった。

「なぜそれを? 極秘情報のはずです」
「情報通の私を見くびって貰っては困ります。楽しみですねダム建設」

その発言に、椛は眉根を寄せる。

「気は確かですか? 山の一部が人工物に加工されるんですよ?」
「だって記事の良いネタになりそうですし。いいじゃないですかあの程度の規模。安いものです」
「あの場所が何かご存知ですか?」
「ええ知ってますよ。タン壷にも劣る穢れた場所。この山の恥部です。いっそ無い方が山のためです」
「撤回してください」

聞き捨てならないと文を睨む。

「いくら貴女でもその言葉は…」
「きゃあああぁぁぁぁ誰かああぁぁぁぁ!!」

文が絶叫して店の外へ飛び出す。通行人の腕を掴んだ。

「あの白狼天狗が私に暴力を! 助けてください!」
「はぁ!?」

鴉天狗の集落だけあってか周囲には鴉天狗しかいない。
椛はそんな彼らに一瞬で取り押さえられた。
頭を強く床に押さえつけられる。

「良い眺めですね椛さん」
「どういうつもりです?」

口元を扇で隠して笑う文。
屈んで、椛にしか聞こえない小声で話し出した。

「実を言うと、あそこをダムに沈めるために守矢に色々と情報を渡したのですよ」
「なぜ?」
「これからの時代は守矢神社ですよ? 今の内に守矢に媚を売っておけば、出世しやすいので」
「この裏切者。今まで姿を見せなかったのはそういうことか」

故郷を侮辱され、卑劣な方法で取り押さえられた椛は頭に血が昇り、怒りの感情をただただ前面に押し出す。
その様子を見て、計画通りにコトが進みそうだと文は安堵した。

「これから重鎮達の目を盗んで、守矢と私であの地を浄化します。ちょっと強引な方法でね。邪魔されては困りますので、ちょっと牢屋に入ってて貰えます?」
「ふざけるな!!」
「おお怖い怖いっと」

鴉天狗を振り払おうとする椛だが多勢に無勢、無理矢理立たされ連れていかれた。

「皆さん、危ない所を助けていただきありがとうござました」

椛を取り押さえた鴉天狗にお辞儀をして、店主に多めの食事代を支払い店を出る。

「さて、これで心置きなく…」
「文!!」

はたてが息を荒げながら走ってきた。
ここでの彼女の登場は、まったくの想定外だった。
はたてがこの時間にこの場所を通ったのは全くの偶然である。

「さっきそこで連れてかれる椛を見た! どういうこと!?」
「あーもう、タイミングが悪いですねはたて。なんで今日に限って早起きなんですか?」
「答えて!!」
「わかりました。ここでは人目につきます。ちょっとこっちに来なさい」

はたての腕を掴んで移動する。
集落を出て、林道からも外れた場所までやってくる。

「さっきの件、あれには深い事情があります。大事な話なので良く聞いてください」
「う、うん」
「ではまず。あそこにあるものが見えますか?」

文は山頂を指差した。

「えっと。どれの事を…ぐっ」

余所見をしていたはたての鳩尾に、文は拳をめり込ませていた。

「ど、ぅし、て?」
「ごめんなさいはたて。椛さんのこと、よろしくお願いしますね」

膝から崩れ落ちるはたてを、文は優しく受け止めた。














天魔の屋敷。

「天魔様! 天魔様はまだいらっしゃいますか!!」
「どうされました射命丸さん? そんな大声で」

文が玄関で叫ぶと女中が応対した。

「天魔様は!?」
「天魔様なら今湯浴みをしておりますが?」

会合所が近いという理由で、天魔はまだ屋敷にいた。

「良かった。まだ出かけていないのですね」
「どうした? 朝っぱらから騒々しいぞ」

たった今湯浴みを終え、子供の用の浴衣を羽織り、首に手拭をかけた天魔がやってきた。
普段ならその姿を愛らしいと感じるのだが、今の文にその余裕は無い。

「どういう状況じゃ?」
「さぁ? 私も今来たばかりですので」
「事情は聞かないでください」

文は玄関の外側の壁に立て掛けるように寝かせていたはたてを担ぎ戻ってきた。

「はたてに何があった!?」
「気を失っているだけです。すぐに目を覚まします」

文は女中にはたてを預けると、その場で土下座した。

「はたての事を思うなら、今日一日、何がなんでも彼女を外に出さないでください!」
「何をしようと考えておる?」
「言えません」
「言えぬのに、こちらが従うと思うか?」
「お願いします。はたての為なんです」
「…」

文との親交が長い天魔だが、彼女がここまで必死な姿を見るのはこれが始めだった。

「それがはたての為になるんじゃな?」
「必ず」
「わかった」

その言葉を聞き、ようやく文は顔を上げた。

「はたてを土蔵に繋いでおけ」
「よろしいのですか?」

命じられた女中は困惑する。

「構わん、少しキツめの捕縛具を使って良い」
「かしこまりました」
「ありがとうございます。では私はこれで」
「待て文」

出て行こうとする文を呼び止める。

「はたてにとってお前の代わりはおらん。これからもはたてを支えてやってくれぬか?」

それは文の帰還を願う言葉だった。

「…」
「それも答えられぬか?」
「すみません」
「まあ良い。お前の進む道じゃ。儂から口出し出来ることは何もない」
「恩に着ます」

振り返ることなく、文は駆け出した。
彼女の後ろ姿を見送ってから、天魔は出立の準備を始めた。

いよいよ、投票の時がやってくる。














拘留所。

「よし、外れた」

牢の中に入れられた椛だが、かつてここの番をしていた経験から、脱獄の方法を知っていた。
一見堅牢に見える鉄格子だが、実は四隅の棒は脆くて外れやすい。その外れた格子の隙間なら、肩関節を外して出ることが可能だった。

見張りが交代を呼びに行く数十秒の間に、鉄格子を外し、あとは肩を外すだけとなった時。

「何やってるの?」
「見て判りませんか? 脱獄の準備です」

たった今拘留所に入ってきた大天狗に説明した。

「今、何時ですか?」
「ランチタイムよ」

見張りの様子に集中して気づかなかったが、入ってすでに数時間が経過していた。

「過半数がダムに『賛成』。負けちゃったわ。ごめんね」
「そう…ですか」

椛の体から力が抜け、壁に背中を預けた。
手からこぼれた鉄棒がカランと虚しく転がった。

「でもね。一発逆転の方法があるわ」
「あるんですか?」
「射命丸文。あれがね、守矢が放火犯である証拠を持ってるみたいなの」
「あいつが?」
「それで今朝。それを持って私に交渉を持ちかけてきたのよ。あんまりにも無茶な要求だったから、つっぱねたけど」

言葉では冷静にモノを言っているが、長い時間を共に過ごしてきた椛には、彼女が尋常ではない怒りを腹に据えているのだとわかる。

「そもそも私、大女と違うし。モデル体型なだけだし」

よほど不遜な事を文が口走ったのだとわかった。

「それでモミちゃんにお願いなんだけど。射命丸文、サクっと始末してきてくれない? そんで証拠の品奪ってきて。本当は自分が行きたいけど、私が動くと色々と問題だから」

自分たち以外の気配が周囲から消えている事に椛は気づく。
このような話が出来るよう、大天狗は自らの権限を使い、全員引上げさせていた。

「私は一介の哨戒天狗です。普通に命令されるだけじゃやりませんよ」
「ココから出たい?」
「一秒でも早く」
「じゃあ出したげるから行ってきて」
「ずいぶんと安い報酬ですね。やりますけど」

鍵が開き、扉が開け放たれる。

「哨戒で使う剣と盾は、アッチの机の上にあるから持ってって良いよ」
「助かります」

指差す先にあった剣を担ぎ、盾を持った。

「おや?」

盾の裏側に何かが張り付いていた。
それは丁寧に折りたたまれた紙だった。

「これってまさか」

権利書と印字された包みを空けると、樹海の所有権が記載された本紙が入っていた。

「一体どういうこと…」
「あっれー土地の権利書失くしちゃったー? おっかしぃなー? これじゃあ拾った人があの土地の所有者だわー」

椛の視線を受け、白々しくそう言った。

「モミちゃんにあげる。昔に欲しいって言ってたでしょ?」
「これを紙きれに変えるか、権利書のままにするのかは私次第だと?」
「うーん。ちょっと違うかな」
「違う?」
「ダム建設の話を神奈子ちゃんが最初に持ってきた時にさ、『ダム建設が決まったら、権利書を売ってくれ』て言って来たのよ」

値切られることも考えて結構な額を提示したが、それでもメリットが大きいと神奈子は判断したのか、その金額で承諾した。

「射命丸文を取り逃がして、あの土地が守れなくても、十分過ぎるお金が手に入る。だからどっちに転んでも損はないわ」
「良いんですか? 本当に貰ってしまっても?」
「私ってほら、あんまり良い上司じゃないでしょ? だからこういう時くらい大盤振る舞いしないと」
「自覚あったんですね?」
「そりゃまぁ」

大天狗とて、立場上やむを得ないとはいえ、白狼天狗を消耗品のように利用していた事に思う所はある。

「そもそも。なんでそんなに弱いの白狼天狗って? そんなに弱いから、鉄砲玉にされるんじゃん?」
「そうですね。弱肉強食の掟に従うなら、悪いのは我々かもしれません」
「いや、まぁ。流石にそこまでは。弱者を利用したこっちの方が悪かったって言うか…」
「時に大天狗様」
「うん?」
「大昔、私に刀を突きつけて『仲間の命か、自分の命取るか選べ』って言ったの覚えてます?」
「ごめん。あったと思うけど、はっきり覚えてない」

あの時、椛が担いでいた白狼天狗が、椛にとってどんな存在だったかを大天狗は知らない。

「やっぱり。私は貴女様を許せない」
「そうだよね。不平不満や恨み事があって当然だよね」
「…」

権利書を懐に仕舞い、戸を開ける。

「不平不満や恨み言があって当然でしょう。部下にとって上司というのは、本来そういうものなのですから」

そう言ってから戸を閉めた。

(許せないけど、上司としては認めてるってことなのかな?)

大天狗が外に出ると、既に椛の姿は無かった。











投票を終え、天魔は自らの屋敷に戻ってきた。

「戻ったぞ」

普段なら必ず女中が出迎えるのだが今は来ない。彼女には別の役割を与えていた。
天魔は自室に荷物を置くと、土蔵へと向かった。

「戻ったぞ」
「お帰りなさいませ。天魔様」

いつもと変らぬ声で女中が言う。
土蔵には女中ともう一人、はたての姿があった。
今、はたては札と勾玉が等間隔で巻きついている鎖に拘束されていた。鎖には拘束した者を弱らせる効果があった。

「嫌な事を頼んですまない、下がって良い」

恭しく頭を垂れてから、女中は土蔵から出て行った。

「はたてよ、苦しくはないか?」
「これ、外してください」
「それは出来ん」

はたての意識はずっと前に戻っていた。
天魔が来るまで女中と『外して』『駄目です』の押し問答を繰り返してた。

「椛と文の様子がおかしかったんです。会って確かめないと」
「ならん。今、あやつらに関わることは許さん」
「どうしてですか!」
(大天狗殿は、投票が終わった後『これから賭けに出る』と仰った。必ず一波乱ある)

投票後、今後について話し合うはずだったが、大天狗にそう耳打ちされて、予定していたそれを後日に回し、午前中で解散した。

その賭けとやらに文と犬走椛が関わっている公算が高い。
はたては自由になれば二人を探し、巻き込まれるかもしれない。
そんな彼女の身を案じての拘束だった。

「どうしてもですか?」
「どうしても、じゃ。お主が考えを変えぬ以上、あと数刻このままでいてもらう」
「……わかりました」
「そうか」

聞き分けが良い子だ、と胸を撫で下ろした。しかしはたてはそう言う意味で言ったわけではなかった。

「自力でなんとかします」
「なに?」

はたては大きく息を吸ってから、目を大きく見開いた。

「くぅぅ!!」

次の瞬間、ギリギリと鎖が揺れ始めた。

(はやり才能がある)

この鎖は本来、凶暴な妖獣を捕らえるための道具である。
筋力を大幅に封じるもので、妖力に対しての耐性は低い。
それを知ってか知らずか、はたては妖力による破壊を試みだした。

(しかし今のコヤツでも、この鎖は解けん)

それだけこの捕縛具には信頼と実績があった。
最強の天狗の下で数ヶ月間鍛えられ、飛躍的な成長を遂げたはたてでも、無理だと確信があった。
天魔のその見立ては間違いない、ただ一つ間違いがあるとしたら、彼女は友の身を案じている時が最も実力を発揮するという特性を持っていたことだった。

「何じゃ?」

見守る天魔の目の前で、鎖に施された勾玉が一つ、二つと砕け始めた。

「こんなの!!」

はたてを中心に火花と紫電が発生する。
鎖の揺れがより激しさを増す。

「よせ…止めろ」

破壊しようとする反動なのか、はたての体に切り傷と火傷が刻まれていく。
その数は見る見る増えていった。

「体が千切れるぞ!! 止めろ!!」
「嫌です!!」

次の瞬間、札が全て焼ききれて鎖が緩んだ。

「行ってきます」

額から流れる血を手首で拭い、足にできた火傷も気にすることなく外へ出ようとする。
そんな彼女の前に天魔は立ちはだかる。

「待て」
「聞けません」

天魔の横を通り過ぎる。

「頼む」

天魔は俯き、はたてのスカートの端を摘んで弱々しくそう呟いた。

「後生だ。行かないでくれ」

まるで子供がまだ帰りたくないと母親にせがんでいるようだった。

「お前を失いたくない」
「…」

振り払おうと思えば簡単に振り払える手、しかしそれがはたてには出来なかった。

「ようやく見つけたのに、儂はまた、一人になってしまう」

その言葉の意味をはたては知らない。しかし震えるその手から、彼女が自身のことを心から案じてくれているとわかる。

「ごめんなさい。私はどうしても行かないといけません」
「そいつらは命を賭けるに値するのか?」
「あります」
「何故じゃ?」
「私ってこんな性格だから、友達も出来なくて、両親も早くに死んじゃったから、人と喋るのが苦手で、それで良く誤解されて、あんまり肯定っていうのをされた事が無かったんです」

それが引篭もりに陥った大きな要因だった。

「天魔様も知ってるでしょ? 文が椛を連れて引篭もりをやめるよう説得に来てくれた事。あの時、椛は私の新聞に対して辛辣なことも言ったけど最後に『面白い』って言ってくれたの。お世辞とかじゃなくて心の底から


「…」
「椛は、文もだけど。無気力で死んだも同然だった私に、もう一度起き上がる力をくれた。だから、その二人に何かあったのなら、全力で力を貸したい」
「そうか」

天魔の手が離れる。

「すまんな。儂がお主らの仲をどうこう言うのは、筋違いじゃった。行くと良い」
「ありがとうございます」
「おい、携帯を忘れとるぞ?」

部屋に隅に置かれた私物を取らないで出て行ったため、天魔に呼び止められた。

「あ。そっか」
「ほれ」
「ありがとうございま……ん?」

自身の携帯型カメラを渡された時、手の平にいつもと違う感覚を得た。

「私のカメラに何かしました?」
「余計なことかと思ったが、儂の念を少しだけこめておいた。あとこれも余計かと思うが刀じゃ。軽くて扱い易いぞ」

土蔵の壁に掛かっていた刀を渡される。はたては知らないが、かなり値打ちのある刀であった。

「行く前にこれを傷口に塗っておけ、河童の秘薬には劣るが、この程度の傷なら短時間で治る」
「助かります」

貝殻が容器の軟膏を天魔は掬い、はたての傷に塗った。

「あとこれも余計かもしれんが、鋼の兜と河童印の防刃ベスト、南蛮小手、竹の脛当てと河童工場で採用されとる安全靴も一緒に…」
「フルアーマー!? どこの戦!? そこまではいいです!」

刀だけ受け取って、はたては屋敷を飛び出した。

















走る椛の視線の先、樹海の立入りを禁じる札が見えてきた。
自慢の目をさらに奥へと凝らすと、木々の隙間から文、もっと遠くに神奈子と早苗の姿が見えた。

(やっとだ)

今まで待つことしか出来なかった状況がようやく変った。
これまでは上の決定事項をただ粛々と受け入れ続けたが今回は違う。
ようやく自分の手で、自らの運命を決定するチャンスを与えられた。
何百年とこの山に仕えていて初めて起きた奇跡だった。

(絶対に止めてやる)

そう誓い、札を飛び越えて着地する。

「いらっしゃい。よくきたね」
「っ!!」

数メートル先。木の陰からひょっこりと諏訪子が顔を出す。

「そしてお別れだ」

小声で『だいだらぼっちの参拝』と呟き腕を振う諏訪子。
それに連動するかのように地面が盛り上がり、人の腕を形作って椛を横殴りにした。

「ぐぅ!」

盾で咄嗟に防いだがその衝撃はすさまじく、そのまま跳ね飛ばされて急斜面がある方へと転がり、滑落した。

「ふん、犬っころが。どうやって嗅ぎつけたか知らないが、早苗の邪魔するっていうんなら容赦はしな…」

諏訪子の台詞が途切れた。
猛スピードで突っ込んできたはたての蹴りが、その横腹に突き刺さっていた。
枕のように軽々と樹海の中を転がった体は、倒木にぶつかってやっと止まった。

「いててて。おや、誰かと思えばお姫ちゃんじゃないか。ちょっと見ない内に良い面構えになったね。将来が楽しみだ」

服についた砂を払い何事も無く立ち上がった。

「どうして貴女達はいつも椛に酷いことするの?」

天魔の屋敷を出てすぐ、椛がいると思われる拘留所へ向かった。
拘留所へ向かう途中、椛の姿を遠くに見つけ、その後を追った。よっぽど焦ったいたのか、椛は追いかけている事に気づいてくれなかった。
樹海に着く頃には追いつけるだろうと思った矢先、諏訪子が登場。
気付いたら怒りに任せて諏訪子を蹴飛ばしていた。

「それは誤解だよ。別に私達はアレが憎いから苛めてるわけじゃない。お姫ちゃんだって、食べるためには何かを殺すだろう? 歩くたび、そこにいる何かを踏み潰すだろう? それと同じさ。私達が生き残るためには仕

方ないのさ」
「そっちの正当性なんてどうだって良い。貴女は椛を傷つけた」
「いいね。ゴチャゴチャと理由を並べて喧嘩するより、そっちの方がシンプルだ。おいで」

手招きして挑発する。
はたては弾幕を展開し、それを目眩ましに急接近、その顔面に蹴りを放つ。

「全然なっちゃない。弾幕は薄いし、動きは速くても単調。ド素人だ。お姫ちゃん、喧嘩したことないだろう?」

足は諏訪子に容易く掴まれていた。

「よいしょっ」
「ぐっ!」

そのまま地面に投げ落とされる。

「神様に喧嘩売っちゃったんだ。いくらお姫ちゃんでも無傷じゃ帰せないね」

諏訪子が地面に手をつくと、地面が膨れ上がり、はたての腹を強打した。

「がぁ!」
「もう一発」

殴られて跳ね上がった体を、新たに出現したもう一本の腕がはたてを襲う。
はたての体はすぐ横にあった木に叩きつけられ、そのままゆっくり体を木に預けながら倒れこむ。

「ヤベッ、やり過ぎちゃったかな?」

内臓を破裂させたかもしれないと不安になり近づこうかと思った時。
はたてはよろよろと立ち上がった。

「ああ良かった。大丈夫そうならもう帰りな。そしたら特別に見逃して……おい聞いてる?」

諏訪子の声など意に返さず、はたてはその場で首の骨をコキコキと鳴らした。
関節の小気味の良い音を聞きながら、はたては思う。

(なんだっけこの感じ。前にもあった気がする)

かつて、椛が守矢神社に拉致された時、神奈子との対峙でこれに近い感覚に陥ったのを思い出す。
突如焦りは消え、落ち着いて諏訪子を見ることが出来た。
まるでピントが完璧に合ったかのように、先ほどよりも視界がずっとクリアになっていた。

(不当な攻撃には、正当な報復…か)

ここでふと、秋静葉の言葉が脳裏を過ぎった。

「貴女は夜道を怖いと思ったことはある?」
「なんだいイキナリ? 頭ぶつけておかしくなった?」
「良いから答えて」
「いいや、無いね。夜道は私の散歩道だから」
「やっぱり貴女は椛の敵だ」

背中に担いでいた刀の紐を解き、柄を逆手で掴んで抜刀。
抜刀と同時に使わなくなった鞘を目の前に放ってサッカーボールのように蹴飛ばした。
鞘は矢のように一直線に諏訪子に迫る。

「危なっ!」

突然の反撃に驚きつつも、仰け反ってすれすれの所で鞘をかわす。
鞘に気を取られていた諏訪子との距離を鴉天狗の脚力で一瞬で詰め、逆手に握った刀を真横から振りぬく。
諏訪子はそれを顕現させた鉄の輪で受け止めた。

「なんだい。やれば出来るじゃん」
「…」
「お前、本当にお姫ちゃんか?」

氷のように冷たい瞳が、諏訪子を捉えていた。

(完全にスイッチ入ってるな、ん?)

刀を持っていない方の手が、何かを摘んでいることに気づく。
目を凝らせばそれは小さな石だった。諏訪子が気づいたその時、はたては指を弾き、小石を飛ばした。石は回転しなら顔に急接近する。

「ちっ!」

下を向き、帽子のつばで石を弾く。
その隙を見逃さず、はたては手首を大きく捻り、刀を二本の鉄の輪の内側に通した。
そのまま切先を地面に突き刺し、輪が動かせる範囲を制限させた。
そして寸分の躊躇もなく刀の柄から手を離し、握った拳で諏訪子の顔面を狙う。

「うおっ」

諏訪子は鉄の輪を放棄して、はたてから遠ざかる。
拳は帽子を払い落とすに留まった。

「お礼にこれやるよ」

手の平から現れた水で出来たカエル。それをはたてに向け放った。
彼女の足元に着地したカエルは、その見た目以上の水を高圧力で周知に撒き散らし消えた。
予期せぬ攻撃ではあったが、はたては咄嗟に木々を三角に跳び、カエルから遠ざかることでその衝撃を回避していた。
着地と同時に諏訪子を探す。

「誰を探してるんだい?」

真上から声がする。

「そらもう一丁」

はたての真上を陣取っていた諏訪子は、水で出来たカエルを今度は三匹同時に放った。
三匹はそれぞれはたての頭、右肩、左腕に張り付く。

「まともに食らっても、死にゃぁしないから安心しな。血はいっぱい出るだろうけど」

木から飛び降りて身を潜める。隠れるのは、はたての返り血を浴びないようにするためである。

(あれ?)

しかし、予定の秒数が過ぎてもカエルが爆ぜる音が聞こえなかった。
顔を覗かせると、無事なはたてがそこにいた。カエルの姿はどこにも無い。

「おい、私のカエルはどうした?」

はたては茂みから姿を現した諏訪子に、手にしていた携帯型カメラを向けた。

「そりゃ一体なんの真似…ッ!!」

悪寒を感じ、その場から飛び去る。シャッター音の後、諏訪子がたった今いた地面が真四角に抉られた。
水のカエルが不発に終わった理由を理解した。

「おいおい。一介の妖怪が使っても良い能力じゃないだろ」

かつて、文と弾幕こっこに興じたことがあり、その際にフレームに納めた風景の中にある弾幕を消したのを見たことがあった。
しかし、今はたてがやった技はそんな生易しいものではない。
写ったものをその強度に関係なく抉り取る恐ろしい技だった。

「あんのロリババア、携帯に何か細工したな」

はたての携帯から感じる妖気に、天魔の気配を感じていた。
天魔がはたての能力を底上げして、この神業を使用可能にしているのだと看破する。

「二対一じゃん実質」

再び、レンズが諏訪子に向けられる。

「くそっ」

シャッターボタンを押す瞬間、真横にあった木の裏に身を隠す。
その木を中心とした1立方メートルの空間が抉り取られ、地面から草が消えて土が剥き出しになり、根元を失った木が倒れた。

(あんなのに真正面から挑めるか)

たった今倒れた木をスクリーンにして、はたてに気づかれぬよう身を潜める。
気配を殺して機会を窺う。




何も起こらないまま一分が経過する。

「…」

埒が明かないと判断したはたては、カメラの設定画面を表示させる。数回のボタン操作の後、決定ボタンを押した。
操作が終わっても携帯型カメラを閉じず、開いたままの状態でストラップを咥え、口だけでカメラを持った。
口から吊るされたカメラは、ゆらゆらと蓑虫のように左右に揺れる。

(何する気だ?)

木の上に隠れ、はたての奇妙な行動を訝しんでいると、彼女と目が合った。

「あっ、しまった」

はたては地面に刺さっていた刀を抜き、逆手に持ち変えて地を蹴った。
逆手のお陰で、木々が隣接する樹海の中でも、十分に刀を振うことのできた。

振うたび、諏訪子の鉄の輪とぶつかり火花が散る。

「はん! その程度かい!?」

しかし鍛錬の期間が不十分である逆手は所詮付け焼刃。実力は諏訪子の方が圧倒的に上だった。
刀を振り抜いて、無防備になったその隙を見逃さず、右手の鉄の輪で殴りつける。
はたての頭から鈍い音がした。

「…」
(おい嘘だろ?)

脳震盪を狙っての重い一撃。しかしはたてはすぐに顔を上げ、殺意に満ちた目で諏訪子を睨みつけた。
刀を持っていない方の手で、呆気に取られている諏訪子の腕を掴む。

(なんだこいつは)

頭を強打し、血を流してもまったく痛がる素振りを見せないはたてに、薄気味悪いものを感じる。

(手加減して殴るんじゃなかった)
『残り5秒デス』
「 ? 」

なんの前触れもなく聞こえた電子音声に諏訪子の集中が途切れる。

「ぎっ!」

その瞬間、諏訪子の足の甲に激痛が走った。
はたては右足で、諏訪子の左足を踏み。なんの躊躇いもなく自分と諏訪子の足を刀で串刺しにした。

『残り3秒デス』

この時、諏訪子はようやくこの音声が、はたてが咥えている携帯型カメラから出ていることに気付いた。
咥えられたストラップの先で揺れるカメラはカウントを続ける。

『2、1…撮ります』

シャッター音がして、二人のすぐ横にあった岩が消し飛んだ。

「頭おかしいんじゃないかお前!!」

早苗が外の世界にいた頃、このカメラのモチーフとなった携帯電話を持っていたから知っている。
今のはセフルタイマーと呼ばれる機能で、設定した秒数が経過すると自動でシャッターが切られるというものだ。
はたては両手を駆使して諏訪子を押さえつけて、口に咥えたカメラで消すという戦法に出た。
しかし、これにはリスクがある。

「そんなロシアン・ルーレットみたいな戦い方する奴があるか!!」

ストラップを咥える形になるため、レンズを向ける方向を任意で決め辛い。
自分自身が写りこんでしまう可能性だって十二分にあった。運が悪ければ、今の瞬間にはたての胸に真四角の風穴が開いていたかもしれない。
それを承知ではたては実行していた。

「こんなことで命を賭けるな!」

諏訪子はこれを弾幕ごっこの延長程度に捉えていたが、はたては違った。
椛を守るため、これをれっきとした殺し合いだと認識して、諏訪子に挑んでいた。
その覚悟の差が神と天狗の絶望的な差を埋めていた。

「さよなら」

はたては刀から手をゆっくりと離し、その手で咥えていたカメラを持って諏訪子に向ける。
掴まれている右手と左足に刺さった刀のせいで、諏訪子は逃げることが出来ない。
カメラの画面には諏訪子の引き攣った表情が、高画質で映し出されていた。
はたてはシャッターボタンに指を当てる。

「お前みたいなのがポンポン生まれるから、白狼天狗がいつまで経っても下っ端なんだよ」

諏訪子は目を背けることなく、レンズを睨みつける。最後の意地だった。
ついにシャッターボタンが押された。

「なっ!?」

血を流したのははたての方だった。
過剰な妖力の負荷に耐え切れなかったのか、カメラが爆ぜた。カメラに密着していた親指、人差し指、中指がその衝撃で根元から千切れ飛んだ。
霧状になった血が二人の間を舞う。

「だ、大丈夫?」
「…まだ」

細いコード一本で画面とキーが繋がっているカメラを拾おうと、小指と薬指しか残っていない手で何度もカメラを掴もうとする。
少し持ち上がっては落とす、を何度も繰り返す。

「まだ一回くらい使える」

はたての目に諦めの色は無い。血の流れ続ける右手で、携帯を拾うことを止めようとはしない。
左手はまだ諏訪子の腕を強く掴んでいた。

「もう降参しな?」
「嫌」
「引き分けってことにしてあげるから」
「嫌」
「早く治療しないと取り返しがつかなくなるよ?」

土の上には、すっかり血溜りが出来ていた。

「貴女を逃がせば椛が…」
「わかった! もう良い! わかったから! お前の勝ちだ! 椛にはもう手を出さない!」
「本当に?」
「ああ、私が悪かった。だからもう休め」
「うん。そうする」

その言葉の後、はたては蹲り気を失った。
電池が切れたロボットのようにピクリとも動かない。






「痛たたたた。はぁーまったく。天魔様も良い後継者を見つけたもんだね」

自分と彼女の足に刺さったままの刀を抜いてから、ポケットに手を入れて銀色の筒を取り出す。

「天魔様に返す機会が出来て良かったよ」

筒の中身は、早苗が山火事で火傷を負った時に贈って貰った河童の秘薬だった。
貰ってから今日まで、ずっと返す機会を窺っていたが、こんな形で使うとは思ってもみなかった。

「斬られた腕がくっつくんだ。指くらいワケないだろ」

自分の足に塗る分が残っているかを心配しつつ、はたての指を拾い始めた。



はたてと諏訪子の決着が着いたその頃。

「う…」

斜面を転がり、混濁する意識から覚醒した椛は身を起した。

「剣と盾…剣と盾はどこだ?」

揺れる頭を振ってあたりを見渡す、盾は見つからなかったが、鞘に納まった剣はすぐ近くで見つかった。
盾のことは諦めて、懐の権利書の無事を確認する。
しかしあると思っていた紙の感触がそこには無かった。

「そんな…」

冷たい汗が椛の背中を伝う。

「お探しの物はこれかしら?」

振り向いた先、権利書を摘んでこちらに微笑む雛がいた。

「落ちてたわよ。大切な物ならもっと大事にしなさい」
「なぜここに?」
「ここから未だかつて無い量の厄が出ているからよ。何をやってるのかしら?」
「もとはと言えば、貴女が守矢に余計なことを言ったからですよ」

かつて厄カエルが発生した折、その解決のために雛が守矢神社の二柱に椛の過去を話しており、
それで樹海のことを知った二柱は今回の計画を打ち立てたことを教える。

「それは申し訳ないことをしたわね。謝るわ、ごめんなさい」
「まぁ、発端は洩矢諏訪子が部下の祟り神の統治を怠っていたのが悪いんですけどね」
「でも私も軽率だったわ。だから手伝わせてもらえない?」
「手伝うって何をです?」
「全部駄目だった時に、最後の悪あがきをさせてあげる」
「はい?」

雛は権利書を一度自分の胸に押し当ててから椛に渡す。

「良い、この紙切れを…」

そして耳打ちした。

「そうすると、何が起きるんです?」
「さぁ? 何も起きないかもしれないし、起きるかもしれない」
「仮に起きるとして、ちゃんと収拾がつくのですか?」
「大丈夫よ。貴女がいれば止まるわ。多分」
「多分?」

不安を抱きつつ、権利書を懐の奥に仕舞う。

「無事に帰って来なさいね」
「約束できません」

斜面を見上げ飛翔する。

(そういえば『帰って来い』なんて言われたの、今のが初めてだ)

どんな生涯だ、と自嘲しつつ樹海の中、文の姿を探した。





樹海でも見晴らしが良い開けた場所で、文は椛を待っていた。

「遅いですね、どこで油を……ん?」

自分の正面の茂みがガサガサと揺れた。

「何かがいるのでしょ…」

直感だけを信じて咄嗟にその場を転がった。
顔を上げると、自分が座っていた切り株にめりこんだ剣とそれを握る椛の姿があった。

「なんで避けちゃうんですかねぇ? 一瞬で楽にして差し上げられたのに」

文が正面に気を取られている隙に、背後から斬りかかるという奇襲だったのだが、失敗に終わった。

「すぐに終わっちゃつまらないでしょう? もう少し一緒にいましょうよ」
「貴女のことをようやく判りかけてきたのに。また判らなくなってしまいまいた」

突き刺さっていた剣を引き抜き、その切先を文に向ける。
証拠の写真と音声が入っている鞄の紐が今の一閃で斬られたため、鞄は椛のすぐ足元に落ちている。

「本当に、出世のために天狗社会を裏切ったのですか?」
「勝ち馬に乗るのは当然でしょう? 守矢を利用すれば出世するのも楽だと思いまして」
「貴女は他の鴉天狗とは違うと思っていたのに」
「…」

その声に確かな悲痛さを感じ、文は喉を詰まらせる。
一度、唾を飲み込んで、声が震えないよう、いつもと同じ調子で言える事を信じて、言葉を押しだした。

「犬っころが、ちょっと頭を撫でてやっただけで、友達気取りですか?」
「もう良いです。大天狗様の命により、貴女を殺します」

両者は同時に前に出る。
椛は剣を、文は扇を横一線に薙いだ。
剣が文のネクタイリボンを、扇から発生した風が椛の袖をそれぞれ斬り飛ばす。
袖が飛んだ後、椛の腕からは鮮血が噴き出した。

「どうやら接近戦も私の方が強いみた…」

余裕の表情の文、しかしその表情はすぐに崩れた。

振りぬいた剣を椛は手放していた。
軽くなった手で文の喉輪を掴み持ち上げ。その背中を近くの木に勢い良くぶつけた。

「ごっぁ!!」

全身の骨が軋む衝撃に目を白黒させる。
そんなことはお構いなしに、文の体を一旦木から離して、もう一度叩き付けた。

「ガッ!」

太い幹にも関わらず、木はたわみ、ベキベキと音を立てた。
それでも椛の手は止まらない。

「らぁ!!」
「い゛っ!」

三度目の衝突で、文の全身から力が抜けた。

「いやぁ流石は椛さん。やはりお強い」

木に背中を預けて肩で息をする文。

「なぜ接近戦を? もっと有利に戦えたでしょうに?」
「近距離で打ち合っても勝てると思ったんですよ。少々慢心が過ぎたようです」
「最後に何か言い残すことは?」
「はたてには、見聞を広めるために外の世界に行ったと伝えてください」
「わかりました」

投げ捨てた剣を拾い、心臓の手前で剣先を静止させる。

「しかし、ここがダムに沈むのを見届けられないのが残念です」
「記事のためにそこまでやりますか?」
「それだけじゃありません。この場所は、私にとって人生の汚点だからです」
「汚点?」
「なんでも無いです」
「話してください」
「早くやっちゃってください。発つ鳥、跡を濁さずというやつです」
「話せ。綺麗な顔で死にたいだろ?」

屈み、爪を頬の肉に食い込ませて迫った。

「わかりました。まったく、これは墓場まで持って行きたかったのですがね」
「早く」
「はいはい。話しますよ」

口の端に滴る血を拭ってから、文は語りだす。

「私がまだペーペーだった頃、新聞記者をしつつ諜報部隊に所属しておりました」
「諜報部隊?」
「組織内で謀反を企てている者を見つける部隊です。調査して見つけた怪しい連中を治安維持隊に報告するのが主な仕事です」
「知りませんねそんな部隊」

山の裏側を知り尽くしている気でいたが、そんな組織は記憶に無かった。

「当然です。ある事件を境に解体されたのですから」
「ある事件?」
「この仕事にはノルマがあったんですよ。検挙率とでも言いましょうか。変な話でしょう? 悪人なんていないかもしれないのに『悪人を必ず見つけて来い』って命令されてるんですよ?」

馬鹿馬鹿しいでしょ、と文は同意を求めた。

「私達の部隊は他の部隊に比べてその検挙率が悪くてですね、だから苦肉の策として適当にデッチ上げることにしたんです」
「デッチ上げる?」
「なんの根拠もない場所を『ここが怪しいかも?』って上に報告するんです。間違っててもお咎めはなし。本当に裏切り者がいたら儲けものです」

文の話が、自身の過去に徐々に近づいてきているのを、ひしひしと感じていた。
そしてその時はやってくる。

「軽い気持ちで、ここの集落が怪しいと報告を上げたのです。まさか住民と治安維持隊の行き違いから、皆殺しになるなんて思いもしませんでした。
 まあ、そのお陰で、我々はノルマを達成できたので、ここの連中にはちょっとだけ感謝ですが、良心の呵責というやつでしょうか。ここを見ると気分が悪くなる」
「そうですか。なるほど、全部合点がいきました」
「ねぇ椛さん。証拠の入った鞄も差し上げますし、守矢のことも全部証言します。だから命だけは勘弁してもらえませんか?」
「大天狗様からは、貴女を始末するよう仰せ付かってます。鞄があれば貴女の証言など不要です」
「貴女は知り合いでも斬れるんですか?」
「生憎と、大天狗様の指令は今まで一度も背いたことが無いんですよ」

剣を振り上げる。

(こいつが私の仇の一人か)

こんな近くにいるとは、なんとも皮肉な話だと思った。

(こいつを殺せば、ここが守れる。守矢も山から追い出せる。犬走***の無念を晴らせる)

文は観念して目を閉じていた。

(馬鹿な人だ、よりにもよって大天狗様の機嫌を損ねるなんて……ん?)

何かが引っ掛かった。

(なんだこの違和感?)

文の行動を振り返る。
出世したいがために守矢側についた。
この土地に嫌な思い出があるからダム計画に乗った。
守矢をいつでも裏切れるように証拠写真を用意した。
その写真を手に大天狗の地位を得ようとした。
邪魔されては困るため、自分を牢屋に入れた。

(ここを沈めたいのに、どうして大天狗様に証拠写真の話をする? 守矢に付くいておきながらどうして守矢を裏切る? 他の行動もだ。一過性がまるで無い)

よくよく考えれば、文の行動は、椛の視点から見て支離滅裂である。

「なんですか? 焦らしプレイってやつですか? それとも助けてくれるとか?」
「一つ質問します。正直に答えてください」
「ひょっとして、当時の私の同僚ですか? やはり同胞を殺した連中は許せませんよねぇ。いいですよ、教えてあげ…」
「出世したいと仰ってましたが、本当にあれで大天狗様の地位が手に入ると思ってたんですか?」
「思うわけないじゃいですか。最初に大きく吹っかけて、徐々にランクを下げてお互いの妥協点を見つける、交渉の基本ですよ。幹部候補くらいが手に入れば良いなと」
「流石は文さんです。交渉がお上手だ」
「それほどでも」
「そんな貴女がなぜ大天狗様を怒らせたのですか? 目上の交渉相手を怒らせることが有効な手段ではないことくらい素人の私でもわかります。解せません」

椛は剣を鞘に納めた。

「貴女はまだ何かを隠している。生け捕りにした方が良さそうだ」
「それは困ります!」

余裕だった文が急に取り乱しはじめた。
椛は彼女の挙動を注意深く観察する。

「なぜ困るのです?」
「生き恥を晒したくないからです」
「文さん、貴女の一連の行動を振り返ると、まるで私に殺されたがっているように見えるのは気のせいですか?」

この時、椛の中にある仮説が出来ていた。

「思い上がりも甚だしいですね。なんで私が下賎な白狼天狗に討たれなきゃいけないのですか?」
「例えば八坂神奈子から、私の過去を聞いたとか?」
「ッ!」

椛は大きく溜息を吐いた。
この時、彼女が何をしようとしていたのか気付いた。

「ほら、帰りますよ」
「は?」
「戻ったら大天狗様に謝りましょう。私も一緒に土下座してあげますから。その後、面の良い男を揃えた飲み会を用意すると言えば、きっと許してくれますよ。あの人結構チョロいですから」

つい先ほどまで文に対して抱いていた強烈な殺意が、胸中からすっかり消えていた。
何故かはわからない。文が仇であることに変わりは無い。
だが急に、文を死なせたくないと思うようになった。

「そんなの駄目です! 私は犬走***から全てを奪った者の一人なんですよ!? ここで貴女に討たれる義務がある!」
(やっぱりそうか)

自分の為に彼女はこんな大立ち回りをしたのだと確信を持つ。
だからこう答えることにした。

「誰ですかそれは?」

愁眉を歪め、問い返す。

「惚けないでください。知っているんですよ貴女の出自を、この集落の唯一の生き残り」
「知りません」
「犬走椛は偽名で」
「知りません」
「本当の名前は…」
「知りません」

椛は文の両肩を持った。

「良いですか文さん。あなたは騙されたんです。八坂神奈子に。卑劣にも、奴は貴女の優しい心を利用して、仲間に引き入れたのです」
「お願いです、そんなこと言わないで」
「犬走***なんて者が存在したなんていう証拠はあるんですか? ないでしょう? あの頃は白狼天狗に戸籍なんてありませんから、奴が適当にデッチ上げた名前です」
「違う。止めて、聞きたくない」
「犬走***なんてのは架空の天狗です。この世に存在しません」
「じゃあ貴女は一体誰なんですか!」
「犬走椛です」
「その犬走椛の親は!? 出身は!? 歳は!?」
「犬走椛は、どっかのだらしのない女が勝手に身篭った餓鬼で、生まれた瞬間にゴミ溜めに捨てられて、そこの生ゴミを食べて育った浮浪児です。拾ってくださった大天狗様には本当に感謝です」
「違う! 貴女は犬走***です!!」




神奈子から椛の正体を知らされた時、文は自分を呪った。なんとしても償わなければならないと誓った。
守矢に寝返ったばかりの頃は、守矢の力を借りて出世して権力を手に入れ、椛を不幸にした連中と心中してやろうと考えていた。
しかし、ダム建設の計画を聞いた時、これを利用できないかと思案した。

そして思いついたのだ。椛の敵討ちを終わらせてやる方法を。
思いつき、即座に実行に移した。

まず、樹海をダムに沈める気など毛頭無い文は、守矢が放火犯である証拠を手に入れることを第一優先に動いた。
放火する現場を教えてくれたお陰で、にとりから借りた暗視レンズ付きのカメラを事前に仕込むことが出来た。
そしてテープレコーダーで二柱との会話も全て録音し、十分な証拠を揃えた。

証拠が揃えば、あとは裏切り者として自分が椛に殺されれば良い。
大天狗を利用して、椛がここに来るように仕向けた。
椛を牢に入れたのは、椛自身の判断ではなく、大天狗からの命令でここへ向かわせるためである。

御膳立ては完璧だった。

あとは椛と対峙して負け、死ぬ間際に自身が椛の仇の一人であることを明かして計画は終わるはずだった。
守矢を排除し、樹海が守られ、椛はもう過去に囚われずに済むという最高の結末を迎えるはずだった。





しかしそれが成就する直前、椛が予想外の行動に出た。

「犬走***など存在しません」
「もういいです!! 貴女が私を討たないのなら、自ら命を絶つまでです」

文はスカートのポケットからメモ帳を取り出し、そこに挟んであった小型のペンを握ると、自身のこめかみに突きつけた。

「私が死ねば、大天狗様の命令に従わざるを得なくなる」

どの道、ここで文が死ねば椛はダム計画を阻止すべく、文の思惑通りに動くしかない。
まだ修正可能な範囲だった。

「私が死んだら、その鞄を持ち帰って守矢を山から追い出しなさい。良いですね?」
「貴女の指図は受けません」

椛は素早く抜刀すると足元に落ちていた鞄を両断した。カメラだったものが辺りに散乱する。

「な、なにやってるんですか!」
「何って、証拠を隠滅してるんですよ」

ケースからフイルムを取り出して、次々に広げていき、テープを割り始めた。

「で、でもはたての能力なら時間と場所さえ覚えていれば念写で」
「止めましょうよ。私達古い世代の禍根にはたてさんを巻き込むのは。それをしたくないから、こんな回りくどい方法を取ったんでしょう?」
「椛さんはそれで良いんですか!! じゃあ仮に貴女が犬走***じゃないとしても、貴女の仲間を大勢死なせた重罪人には変わりありません! 貴女の手で罰せられるべきです!!」
「文さんはその頃ペーペーだったのでしょう? 上司や先輩にくっついて行動していた貴女が独断でここを選べるとは思いません」
「どんな地位でもここの集落の全滅を手伝ったのは事実です」
「そんなの可愛いものです。私なんて大天狗様に言われるままに殺し回ったんですから。無実の奴だって絶対に斬ってますよ。悪党の私には、小悪党の貴女を罰する資格はありません」
「違うでしょう!! 貴女は犬走***!!」
「だから知らないって言ってるでしょうそんな餓鬼!!」

叫んでから、椛は俯いた。
手から剣が零れ落ちた。

「これ以上その名を口にしないでください。私は、貴女を斬りたくない。お願いです」

肩を震わせながら、声を絞り出す。
自分が犬走***でなければ文を斬らないで済む。
だから椛は嘘を吐く。

「騙すなら、演技するならもっと上手くやってくださいよ。騙されたままでいられたら。貴女を家畜のように殺せたのに」

顔を見せぬよう立ち上がり、刀を拾うこともなく歩き出す。

「しばらくここで待っててください。八坂神奈子と話をつけてきます」
「待ってください! 違う! 戻って!」
「それだけ叫べれば、一人で帰れますね。先に戻っててください。くれぐれも大天狗様に見つかったら駄目ですよ」
「私は、貴女にあんな自殺まがいの言葉を吐かせるために、こんな事をしたんじゃありません!!」

(自殺か、なるほど言い得て妙だ)

かつて鍵山雛に本名で呼ばれた時、違うと惚けた。
しかし今の否定はそんな軽い誤魔化しのものではなかった。

(今死んだんだ。私の中の犬走***が)

心の底から唱えた言葉には言霊が宿る。
椛は自分の中で、犬走***が消えていくのを確かに感じていた。



この山で一番の大嘘つきは、神奈子がいる楓の木を目指した。







「上出来よ早苗」

祈祷を終えて、気を失った早苗を横たえる。

「やはり連れてきて正解だったわ」

怨念を抱えた大量の霊を浄化させるのは、想像以上に骨が折れた。
早苗の力がなければ相当手こずっていた。

「おや。どうしてお前さんがここにいるのかしら?」
「貴女方の悪事を見物に」
「一足遅かったわね。お前さんのお仲間は、全員消えたよ」
「ここに眠るのは、全てを奪われて死んでいった浮かばれぬ者達です。そんな彼らからこれ以上何を奪うというのですか?」
「奪う? 思い上がりも甚だしいわね。邪魔だからどかしただけよ」
「ああそうですか」

椛は神奈子の前に立つと、両手を肩の高さまで挙げた。

「降参、我々の負けです。ここまで引っ掻き回せばもう十分でしょう? 大天狗様が言っていましたよ。ダムを巡って重鎮共の結束はガタガタ。保身に走った連中が秘密裏にそちらと手を結びたいと申し出るのも、時間の

問題だと」

天狗社会は守矢神社の計略にはまり、大敗北を喫した。
それが揺ぎ無い事実だった。

「天狗もよくやった方よ、これからはお互いの発展のために仲良くしようじゃない」
「それで一つ相談がありましてね」

椛は懐から、大天狗より譲り受けたこの土地の権利書を出した。

「ダム建設が決まったら、これを大天狗様から高額で買い取る約束になっているのでしょう?」
「なぜお前さんが持ってるの? いや、大体読めた、大天狗も粋な計らいをするわね。慰謝料ってやつかしら?」
「私の頼みを一つ叶えてくれるなら、これを差し上げます」
「面白い。言ってみなさい」
「裏切り行為を働いた射命丸文にお咎めが行かないよう取り計らってください」
「なに?」
「聞こえなかったですか? 『幻覚で操っていた』とか『あれは偽者で、本物はずっと神社に閉じ込められていた』でも何でもいいです。彼女を無実にしてください」
「そういう意味で聞き返したんじゃないわ。莫大な金を捨てて、仲間一人を救うというの?」
「何か問題でも?」
「くくっ」

神奈子は思わず口元を歪める。

「いやはや全く。お前さんとはもっと違う形で会いたかったとつくづく思うわ」
「どんな形でも、貴女には会いたくありませんね」
「わかった。射命丸の件はこちらで引き受ける」
「ありがとうございます」
「なに、権利書に支払う金額に比べれば安いものよ」

権利書を受け取るべく神奈子は手を差し出す。
しかし椛はその手から遠ざかり、近くに立っていた一本の楓の木に近づき、背伸びをして枝の付け根に権利書を置いた。

「なんの真似?」
「ささやかな抵抗です」
「何か仕込んだ?」
「私にもわかりません。何か起こるのかもしれないし、何も起こらないかもしれない」

諏訪子に崖に落とされた後、出会った厄神。
その時に雛から言われた事を実行した。

「拾ってください。そうすれば権利書は晴れて神奈子様のものです」
「良いわ。何か知らないけど受けて立とうじゃない」

一歩、また一歩と楓の木に近づく。

「神奈子様はこの土地を潰すのに、罪悪感はありますか?」
「無いわね、申し訳ないけど。この場所はすごく気に入らないから」
「気に入らない?」
「ここの穢れは尋常ではないわ。私のような神聖な存在にとって、すぐ身近にこんな場所があることが我慢ならないのよ」
「潔癖症なんですね」

そうこう話している内に、神奈子は楓の木までやってくる。
手を伸ばし権利書を手にした。

「なんだ、何も起きないじゃない」

拍子抜けしつつ、本書を確認すべく包みを開けた。
その瞬間、神奈子の見ていた景色が一変した。

「なに?」

まるで突然夜にでもなったかのように、神奈子の見ているものがすべて黒に塗りつぶされた。

「よぉ神様。こんにちは」

背後にいる何者かが、神奈子の首に腕を回して抱きついてきた。
振り向くと、整った顔立ちの白狼天狗の少女が神奈子に微笑みかけていた。

「誰だ?」
「無念を背負ったまま死んだ、しがない白狼天狗の一匹だよ」
「全員祓ったはずだけど?」
「そうだね。消える直前だった私たちだったけど、あんたがその権利書に篭められた厄を開放してくれたお陰で、最後の悪あがきが出来る分の体力が戻ったんだよ。嬉しいねぇ」
「……そんなに私が憎い?」
「ちっとも。私達が恨んでいるのは自分達を勝手な都合で死なせた天狗社会と鬼連中さ、アンタじゃない。だだね…」

そこで一度言葉を切る。肩に掛かる重みが少し軽くなった気がした。

「ここに埋まっているのは長い間ずーと、恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨み続けても、それをどこにも発散させられずに燻り続けた恨みの業火だ。
 アンタ個人に恨みは無いよ。しかしこの土地を潰そうとしてる。八つ当たりする理由としては、十分だと思わないかい?」

可憐だ少女だったものは、その瞬間に白骨化して、闇の中に溶けていった。
そしてすぐ、神奈子の意識は元の世界に戻された。

「これは!?」

神奈子の足元には直径1メートルほどの泥が広がっており、泥の中から生えた複数の黒い腕が神奈子を掴んで泥の底へと引きずり込もうとしていた。
どれだけ力を込めようと、どれだけ手足を動かそうと、神奈子の体は徐々に沈んでいく。

「どうなってる? なぜ私の力が効かない!」

泥の中でもがく神奈子を、椛は冷めた目で見ていた。

「何をした!!」
「わかりません。厄神に言われたことを実行しただけですので」

「私が教えてあげるよ」

神奈子の椛の間に諏訪子が片足を庇いながら着地した。
腰まで浸かっている神奈子を見下ろす。

「こいつは恨みが具現化したものさ、厄の原液・祟り神の原初の姿と言っても良い」
「私の力が発揮できないのもそのせいか?」
「お前は常に勝ち続けた。負けることがあっても結果的に自分の思惑通りに事が運ぶのが常だ。常に敗者であるこいつらは自分達と対極の位置にいるお前が妬ましいのさ」

だから取り込もうと躍起になる。

「私はもう終わりか?」
「言っただろう、祟り神の原初の姿だって? 私ならこれに干渉して、お前を引張り出すくらいの事なら出来る」
「そうか、じゃあ頼む」
「やだね」
「何?」

諏訪子は一歩引いて、目の下を人差し指で引っ張っり、べぇと舌を出した。

「早苗がお前と一緒に居るのは危険だ。警告したのに、お前はここの怨霊を甘く見ていた。勝てる相手を侮って不覚を取ってこの様だ。それはいつか早苗を巻き込む」
「これを機にそれを改めるわ」
「信じられるか。これまで何回裏切った?」
「早苗は私を敬愛してる。私が居なくなればどうなる? 私に仕えることが早苗の至福だと…」
「このっ!!」

神奈子の頭を掴み、泥の中に押し込んだ。
泥からかろうじて出ている神奈子の手が、諏訪子の手を懸命に掴む。

「早苗を大切にすると誓え! 誓えるなら手を離せ! 誓えないならそのまま掴んでろ!! このまま沈めてやるから!!」

言ってすぐに、神奈子の両手が諏訪子から離れた。

「そういうわけだ。悪いね、こいつを引張り上げさせてもらう」
「ご自由にどうぞ」

引上げられた神奈子は、地面に雑に放り投げられた。

「さて、こいつをこのままにしておくのもマズイね」

祟り神の統括者ですら、この泥はどうしたものかと考え込む。

「私に任せて貰えますか? もともとは私のせいで出てきたモノですし」
「できるの?」
「雛さんは、私が行けば被害は拡大しないと言ってました。それにあの中に知り合いがたくさんいますから」
「そうかい。じゃあ私達は引上げさせてもらうよ。ほら行くよ神奈子」
「あ、ああ…」

神奈子は自身を抱きしめて震えていた。

「ほらシャンとしな。結果として全部お前の思惑通りだったんだ。勝者なんだろ? 私は早苗を担ぎたいから自分で立て」
「わ、わかってる」

早苗を担ぐ諏訪子と泥を被った神奈子。両者ともたどたどしい足どりで鬱蒼とした木々の中に消えていった。

「さてと」

足元に広がる泥を見る。
一度深呼吸してから、椛は足を踏み入れた。





「…知っている、景色だ」

泥の向こう側にあったのは、まだこの土地が集落として存在していた頃の風景だった。
楓の木があった場所を見ると家族で過ごした我が家が建っていた。

そこから一人の女性が現れ、話しかけてきた。

「おかえりなさい***。お腹空いたでしょう?」
「か、かか様?」

母親との突然の再開だった。

「おお、***。帰ってきたか」
「とと様まで」

母に続き、今度は父親が玄関から顔を覗かせる。

「さあ早く上がりなさい、風邪引くわよ」

手を引かれ家に招き入れられる。
中は自分の覚えているそのままの内装だった。
ちゃぶ台の上には夕飯がすでに用意されており、父が既に座っていた。
無骨だが頼りになる父と、いつも笑顔で迎えてくれた優しい母の間に座る。


「ついに***も俺と同じ哨戒の任に就いたか」
「あまり前に出ては駄目よ。危なくなったら男の後ろに隠れていなさい」
「心配ないさ、俺の剣の才をしっかりと受け継いでる。きっと出世するぞ」

(そうかここは)

今居る場所が『もしも』の世界だと知る。

「なんたって***は、この村の小さな英雄だからな。偉くなれないわけが無い」
「そういえば昔、この子がそう呼ばれていた時がありましたね」
「この村が無事なのも、***のお陰かもしれないからな」
「えっと、それは一体?」

身に覚えの無い話をされて戸惑う。

「お前がまだ幼い頃、ここに上層部直属の治安維持隊が来たんだ。俺たちが謀反を企てていると聞いてな」
「あの時は寿命が縮みましたよ」
「外で俺達と治安維持隊が言い合っている時に***が飛び込んで来て怒鳴ったんだ『ここにいる白狼天狗は誇り高き山の守護者ですっ!』と」
「それを見た治安維持隊の皆さん、毒気を抜かれてすごすごと帰っていったのよ」
「お前が来なければ、激しい口論になって暴言を吐いていたかもな。そしたらこの村は全滅だった」

あの晩、上層部との誤解が解けて、無事に翌朝を迎えられた場合の世界。
自分がひょっとしたら、逃げるのではなく向かっていったら、存在していたかもしれない世界。

(私がそう行動していたら、この世界と同様、犬走椛は犬走***のまま、両親の庇護下で、真っ当な哨戒天狗としての人生を歩んでいたのだろうか)

それはもう誰にもわからない。

「さぁ。いただきましょうか」

母が茶碗によそったのは真っ黒な泥だった。神奈子を飲み込もうとしていた物と同じ。

「どうしたの***? 食べないの?」
「食べればお前も、ここに住人になれるんだぞ?」
「また三人で暮らしましょう?」
「早く孫の顔が見てみたいものだ」

「すみません」

箸を置いて、二人に向かい頭を下げる。

「この世界はとても優しい世界です。来てまだ数分ですが、ずっと居たいという気持ちになります」

自分の知っている世界は、自分に対してどこまでも不条理で理不尽で、悪意に満ちている。
この世界は何もかもが優しく、温かかった。

「罪人の私には、余りにも過ぎた世界です」

だから突っぱねる。

「それに、あなた方の子供である***は、もう何処にもいないんです。私がさっき死なせてしまいました。私はこの家に上がる資格すらないのです」

俯く椛を、両親は優しく見守っている。

「あなた、名前は?」
「犬走椛です」
「良い名だ。***と負けず劣らずの綺麗な響きだ」
「幸せになりなさい」
「体に気をつけるんだぞ」

その言葉の後、両親の体は腐り始め、やがて骨となり、粉になって散っていった。

そしてすぐに色彩の豊かだった景色が暗転した。






「どうして?」
「ッ!?」

声がした方を振り返る。
鞠を手にした幼い女の子が暗闇の中にぽつりと浮かんでいた。
つい先ほど何者かに叩かれたのか、頬には青アザがある。椛をただじっと見つめていた。
彼女が誰かを知っている椛は恐れることなく向き合った。

「ごめんな。私はお前が望む犬走椛になれなかった」

幼い自分に謝罪する。

「その命と引き換えに私を産み落としてくれたのに、頼まれていた復讐を、私は果たせなかった」

尋ねれば文の口から、事件に関わった全員の名前を知ることが出来るだろう。殺す事には慣れている。しかも殆どが老人であるため、成功できる確信があった。
しかし、それをしなかった。
これ以上にない最高の復讐のチャンスを椛は見送った。

過去の自分は不思議そうに小首を傾げた。

「どうして、仕返ししなかったの?」

それはまるで、空がどうして青いのかを両親に質問するかのような口調だった。
その声に糾弾の意志は微塵も感じない。

「わからない。色々な事を考えたら、体がああいう行動を取っていた」
「後悔してる?」
「不思議とそんな感じはしない」
「そっか。なら仕方ないね」

過去の自分は一度だけ微笑むと、消えてしまった。
今この時、犬走***が完全な死を迎えたことを、椛は悟った。
もう彼女はこの世のどこにも存在しない。精神的にも肉体的にも社会的にも、椛が殺し尽くしてしまった。


「それでここから、どうしたら良いんだ?」

右も左もわからない暗闇の中でどう行動すべきか椛は途方にくれる。

「帰ればいいんじゃないかな?」

突然何者かに手を取られて引かれた。闇がさっきよりも濃くなっているせいで、相手の顔はわからない。
進まされる方向には、出口を思わせる強い光源があった。

「止めてください。ここを放って出ていくわけにはいけません」

この泥をなんとかするために、この中に飛び込んだのだ、解決できないまま帰るわけにはいかない。

「心配無いよ」
「その声…」
「お前の行動、見させてもらったよ。とても高潔だと思う」

その声を知っていた。

「私達は白狼天狗だ。ここの皆は今はこんな姿になっちまったけど、元々はこの山が大好きなんだ。だから大丈夫、白狼天狗は山の守護者、決して自らの手で山を穢しはしない」

まだ駆け出しの頃、自分を支え、勇気付けてくれた人物の声だった。

「お前が来てくれた事で、ここにいる全員がそれを思い出したんだ」
「貴女は…」

まだ遠くにあると思っていた光源はいつのまにか目の前まで来ていた。

「私は怨霊だから、お前の未来に祈ることは出来ない。だから呪いをかけさせてもらう」
「呪い?」
「『次にお前が誰かに手を引かれた時、必ず後ろを振り向く』という呪いをかけた。この呪いの後、お前はもう前を向いてしか歩けなくなる」

そして光の中に放り込まれた。

「元気そうでなりよりだ。達者でな椛」
「先輩!」

振り返るも強い光のせいで、その顔は見えなかったが、彼女はきっと笑っている気がした。
椛が良く知っている笑顔で。



























ダム開発が始まった。
投票で決定するまでダムのことを一切知らせず、重鎮達で勝手に決めたことで多方面からの批判を上層部は受けたが、洪水の危険性を説くことで渋々周囲を納得させた。
工事は八坂神奈子の監督のもと行われたが、工事が始まった当初は諏訪子が陣頭指揮を執っており、そのことに多くの関係者が首を傾げていた。
一月足らずでダムの外観を出来上がり、後は厳重な強度試験を残すだけとなった。





日夜を問わず行われる工事によって完成間近のダム。
人と人が余裕ですれ違える幅を持つコンクリートの壁に座り、自身が守ることの出来なかった樹海を眺める。

「ほんと白狼天狗ほど意味がわかんない生き物はいないわ」

椛の背後に立つ者が居た。

「今までウンザリするほど白狼天狗が死ぬのを見てきたけど、アイツらってこの山の為っていう大義名分を与えると、喜んで自分を犠牲にするのよ。だから長生きしてる奴が少ない。モミちゃんはそういう奴らとは違う

って思ったんだけどね」

声の主は大天狗だった。

「なんであんな事したの?」

哀愁の漂う椛の背中に問いかける。

「わかりません」
「『わかんない』っか。きっとそうなんでしょうね。もう遺伝子レベルでそう動くように設計されてるのかしら?」

大天狗は椛の正面に立つと、屈み彼女の両頬を摘んだ。

「泣いときなさい。心が持たないわよ?」
「遠慮します」
「強がっちゃって」
「強がってないです」
「辛いことがあったら泣いてスッキリするのが、長生きの秘訣よ」
「知ってます」
「なら泣きなさいよ」

長い歴史の中、ただ一度も勝てず敗北だけを重ねてきた種族にそう命令する。

「大天狗様は知らないでしょうけど、私って結構泣き虫なんですよ? 辛いことがあるたび、隠れていつも一人で泣いていたんです」
「じゃあ泣けばいいじゃない」
「昔から、理不尽な二者択一ばかりを迫られてきました。どっちを選んでも、最悪の結果しか残ってない余り物の選択肢ばかりです」

今までずっと消去法でその選択肢を選んでいた。

「でも今回は違います。これは、今までの私の生涯の中で、初めて自分の確固たる意志の元に下した決断です………だから……」

じんわりと椛の眼球が充血を始めた。

「絶対に、泣い、て……たまる、もん、ですか…」

椛の声が上擦り始めたとき、大天狗は椛の頭を抱きしめていた。

「ごめんね。何もできなくてごめんね」

胸に感じる湿った感触は、きっと気のせいなのだと大天狗は思った。





一日、二日、三日と時が流れる。




椛はこの日も、壁の上から樹海を眺めていた。
すでに強度検査は終わり、少しずつダムの底に水が溜まっていく。

「新聞、新号を出したから良かったら読んで」
「ありがとうございます」

はたてが椛の隣に座る。
諏訪子との戦いで負傷した手は、今は元通りになっていた。後遺症は無く、指の長さも変らない。
はたては諏訪子と戦った事に関して殆ど覚えておらず『無我夢中で暴れていて、気が付いたら手に包帯が巻かれて診療所のベッドで寝ていた』というのが本人の感覚だった。

「一ヶ月を過ぎちゃったけど、相手してくれる?」

天魔と賭けをした期日はとっくに過ぎていたが、指を負傷した期間はカウントしないで欲しいと頼み込んだところ特例として認めてもらえた。
そして医者から診療所に通う必要が無いと言われた今日、椛に試合を申し込みに来た。

「構いませんよ」

はたてが持参した木刀を受け取り構える。

「行くよ」
「いつでも」
「でりゃあ!」

次の瞬間、はたての木刀が宙を舞っていた。

「今の、相打ち覚悟だったでしょ?」
「それでも駄目だったから、やっぱり強いね椛は」

大の字になって倒れながら、はたては言った。

「逆手は使わなかったんですね。あれだと見込みがありそうだったのに」
「なんか違うと思って」
「違う?」
「最近気づいたの。私は椛みたいな強い剣士になる事が目的じゃなくて、椛みたいになりたいんだって」
「私のようにですか?」

上半身だけ起き上がる。賭けに負けてもその表情は清々しかった。

「これからは椛の真似をするんじゃなくて、私は私なりのやり方で、椛のような強くて格好良い天狗を目指す。だから剣の稽古は今日でおしまい」
「それは無理ですね」
「え゛っ!」

まさかの否定にされるとは思っていなかったため、裏返った声が漏れた。

「だって貴女はどう頑張っても、強くて“可愛い”天狗にしかなれませんから」

優しく笑う。その表情に、はたての胸がドクンと跳ね上がる。

(ああ、確かに。文が惚れたのが、なんとなくわかる気がする)
「大丈夫ですか? 顔、赤いですよ?」
「な、なんでもない! まだ新聞配るのが残ってるからそれじゃあ!!」

逃げ出すようにその場を後にした。













次の日も、その翌日も、椛はその場所でダムを眺める。
少しずつ少しずつ、樹海の木が沈んでいった。

何もしないでそこにいる椛にはたては気を利かせて、自分の新聞の他に別の鴉天狗が発行した新聞も毎日届けに来てくれた。
日に日に新聞が溜まって行く。


『○月×日 河童の河城にとり。家庭で紙が印刷できるコピー機を発明! 印刷所に行かずとも新聞の発行が可能に! 山伏天狗からは批判の声!』

『○月△日 河童の河城にとり。製本機能を持った印刷機を発明! 富裕層しか所持できなかった希少なハードカバー本が大量生産可能に! 山伏天狗からは感激の声!』

『○月▲日 なだれ注意の呼びかけ』

『○月◎日 地底から謎の煙! 地上侵略の前触れか!?』

『○月☆日 ヒグマの被害拡大。冬眠中の穴には近づかぬこと』

『○月▼日 人間の里の寺子屋の前に大量の学習教材が届く。差出人は“ダイガーマウス”。元寺子屋の生徒か?』

『●月□日 ダムが本格稼動。盛大な竣工式』

『●月◇日 山伏天狗男性と白狼天狗女性が結婚。今年に入って三組目の異種婚。天魔様が祝福の声を、大天狗様は嫉妬の声を送る』

『●月■日 守矢神社と天狗上層部。ダムの共同管理に合意。和やかな調印式』

「…」

二柱と笑顔で握手を交わす天魔と大天狗の写真が大きく写っている。

「みんな、変っていくんですね」

はたては大きく成長し、にとりも有名発明家の仲間入り。
守矢神社と天狗上層部は、お互いの妥協点を模索しながらこれから上手く付き合っていくのだろう。

(私は、失くしてばかりだ)

ダム騒動であれだけ振り回されたあげく、一切合財失った。

「故郷も守れず、使命であった復讐も果たせず、過去である犬走***を否定した」

自らの手をジッと見る。

「それじゃあ私は一体、何者なんだ?」

あの楓の木は、ダムの底に沈み。もう見えない。

この日、犬走椛は妖怪の山から姿を消した。








【 epilogue  】



――― 突然のお手紙失礼します。
――― 姫海棠はたてです。

――― 手紙は新聞と同様、一生残るものなので、ここでは敬語を使いたいと思います。
――― 貴女に対して敬語を使うのは少しだけ違和感があります。

――― さて、椛が山から姿を消して一ヶ月ばかりが経とうとしています。

――― 実は私が入院中に、お見舞いに来てくれた洩矢諏訪子様や天魔様、大天狗様から私が知らない所で何が起きていたのかを教えてもらいました。
――― 知りたい事も知りたくなかった事も全部です。

――― この一件の一番の被害者は椛であることに間違いありません。
――― 守矢神社が最も悪いですが、それに付け入る隙を与えた天狗社会の偉い人たちも悪いです。
――― 白狼天狗に対して何もしないで傍観を決め込んでいた私達若い世代も同罪です。
――― きっと私達全員が加害者なのだと思います。
――― 私達がどうすれば椛に償えるのか、悔しいことに、いくら考えても答えは出ませんでした。




――― 椛がいなくなっても天狗社会にまったく影響はありません。

――― ただ、山に住んでいる一部には間違いなく影響を与えました。
――― 大天狗様がその一人です。



「こんにちはー今月の果花子念報をお持ちしましたー」
「あらいらっしゃい。今週は何の特集?」
「人間の里にある和菓子・スイーツ店特集です」
「まぁ素敵。そういうのがあるからはたてちゃんの新聞好きなのよ。最近順位も上がってるみたいだし、贔屓してる甲斐があるわ」
「あ、ありがとうございます。では配達の途中なので私はこれで」
「えーいいじゃない。もっとゆっくりしてってよ? 最近、誰も話相手になってくれなくて退屈してるから」


――― 椛がいなくなって、一番寂しい思いをしているのは大天狗様のような気がします。
――― 大天狗様はその地位と実力と…あと、ちょっとノッポなせいで皆から恐れられています。
――― だから椛以外に会話が弾む相手がいないみたいです。
――― 本人もその自覚があるから、ああいう喋り方にして、親しみを持ってもらおうとしているのかもしれません。
――― あの人は、私達が思っているよりずっと寂しがり屋なのかもしれません。
――― それでも山の業務を滞りなく回しています。私もあんな出来る女になりたいです。


――― 寂しい思いをしているのは、大天狗様だけではありません。
――― 河城にとり。彼女もその一人です。


「ぷはぁ!」
「今日も潜ってるの?」

――― 彼女はコピー機の開発がひと段落してからは、暇を見つけてはダムによく潜っています。

「まだ椛を探しているの?」
「勘違いしないでよ、確かに私は椛を探してるけど、水死体を見つけるのが目的じゃない。椛がここにいないことを確認してるんだ」

――― 椛は自殺したのではないか。と推測している人がいます。
――― 彼女はその推測を真っ向から否定するために椛の姿を探しているのです。
――― にとりは椛が生きていることを信じて疑いません。



――― 椛がいなくなっても変わらない人もいます。
――― 天魔様です。
――― 相変わらず、あの幼い顔には似つかわしくない小難しい表情を浮かべて天狗社会の統括をしています。

――― つい先日、天魔様から呼び出しを受けました。

「お前には話しておきたいことが二つある」
「二つ?」
「まず一つ。文の事を恨まんでやって欲しい。今回のダム騒動は山の暗部が大きく関わっておる。それに何の関わりも無いお主を巻き込みたくなかったのじゃ」
「恨むだなんてそんな」
「長く生きている天狗は儂を含めどいつもこいつも罪人じゃ。しかし、望まずに悪事を働いた者がいたことも知っておいて欲しい」

――― あの頃はそうしなければ山は成り立たなかった、と天魔様は悲しい目でそう言いました。
――― 今私達が歩いているこの安全な道は、先人たちが私達のために作ってくれた文字通り、血道なのだと教えられました。
――― この道はいずれ私達に託されます。その時、同じことを繰り返さないで欲しいというのが天魔様の願いなのだそうです。

「そしてもう一つ。はたてよ。本日付けでお主との師弟関係を解く」
「えっと、それって破門、ですか?」
「破門というのとはちょっと違うのぉ。ようやく並の鴉天狗になったからな、頃合じゃと思うてな」
「つまり、免許皆伝?」
「調子に乗るなヒヨっこが! 補習が終わっただけじゃ!」
「あだー!」

――― あの小さな体から繰り出される拳骨は、なぜこうも痛いのでしょうか?

「まぁ、わからぬ事、覚えたい術があればいつでも教えを乞いに来るが良い」
「念写の応用技を考えたので、今度見てもらっていいですか?」
「うむ。構わん。期待して待っとるぞ」

――― 私をシゴけるのがよっぽど嬉しいのか、私が困ったことを相談しに行く度に、見た目相応の童女のような、まるで花が咲いたように笑うのです。

「それはそうとな」
「はい?」
「お前と性格の合いそうな男を何人か見繕っておいた。会うだけでも…」
「お邪魔しました!」

――― 最近はやたらお節介を焼いてきます。
――― 見た目はあれですが、なんだかお婆ちゃんみたいです。
――― 当分は縁談から逃げ回る日々が続くと思います。



――― 色々と書きましたが、これが私にとっての近況です。
――― 賑やかではありますが、どこか物足りません。それは椛と、貴女がいないからです。


――― だから早く出てきてください。
――― 一緒に椛を探しに幻想郷中を回りましょう。
――― 気温も段々と温かくなり、春の足音が近づいてきています。三人でお花見が出来る日が来ることを願っています。

――― 姫海棠はたて





「…」

数日前に郵便受けに入っていた手紙を、仰向けになって文は眺めていた。
ダムの投票日以来、文は引篭もり、家から出ていない。
椛のためと思った行動が、全て裏目に出て、あわせる顔が無いと思っていた矢先に椛が失踪し、全てにおいて無気力になっていた










地底。
旧都の外れ。崩れかけた塀に椛は背中を預けていた。
虚ろな目で膝を抱えており、手元の風呂敷には物を燃やすために持ってきた新聞紙しかもう入っていない。

そんな彼女に近づく影があった。

「おい」

姿勢はそのまま、眼球だけを声のした方に動かす。
若い鬼が三人、彼女を見下ろしていた。

「見ない顔だな。いつからここにいる?」

彼らはこのあたりを縄張りして息巻く若者のグループだった。
余所者を見つけ、排除するために近づいてきたのだ。

「無視すんなよ」

三人のリーダーらしき真ん中の鬼が、椛の胸倉を掴み、上向きに引張った。
若くとも流石は鬼の腕力といった所か、椛の体を軽々と持ち上げて、椛の両足を地面から浮き上がらせた。

「俺らはここで生まれたから詳しくは知らないが、お前、白狼天狗っていうやつだろ? 何でもハイハイ言うことを聞く下っ端天狗」
「…」

椛は動じず、乾いた目で鬼の青年を見据える。

「だから命令してやる。今すぐここから消え…」

椛は鬼の胸倉を掴むと、そのまま自身の体を引き込み、鬼の顔面に頭突きを見舞った。
額の最も硬い箇所が鼻柱に衝突し、彼の両穴から勢い良く血が滴りはじめた。

「てめぇッ! なにす…」

青年が両目に涙を滲ませ、痛む鼻を右手で覆いそう叫ぶ時間を、椛は追撃に回していた。
鼻を右手で覆ったことで無防備になった右側面。鬼の右耳を椛は平手で打ち、耳道に空気を送り込み鼓膜を破壊した。

「ッーッ!!?」

痛みで悶絶し、膝を着いた彼の顔面に蹴りを入れる。そのつま先は的確に右目を捉えていた。
目、耳、鼻。頑丈な鬼でも、体の構造上どうしても脆くせざるを得ない箇所、そこを寸分の狂いもなく破壊した。
一瞬の出来事だった。

崩れ落ちるリーダー格に一瞥もくれることなく、すぐ背後にいた取り巻きの一人の目の前まで跳躍。
驚愕し体が硬直している彼の顎を掌底で打ち抜くと同時に、股座を蹴り気絶に至らしめた。

「ひっ!」

事態がようやく飲み込めた最後の鬼は、生存本能に従い踵を返し、走り出そうとする。
しかし、既に椛が彼の襟を両手で掴んでおり、椛が真下に引張ったことで、彼は地面に仰向けに倒された。

地底の岩盤天井の景色に、己を見下ろす椛の姿が入り込む。
彼女の手には足元に落ちていた石が握られており、何の躊躇もなく、それは振り下ろされる。

だが、それが彼の顔に落ちることは無かった。

「邪魔しないでください」

椛の腕を掴む者が居た。

「その辺で勘弁してやったらどうだ?」
「喧嘩を吹っかけてきたのはコイツ等です」
「わかってる。遠くから見ていた」

その人物はたまたま現場を目撃して、慌てて駆けつけ椛の手を止めた。

「お前は悪くない、正当防衛だ。だがこれ以上はやりすぎだ」
「ここで逃がしたら、仕返しされるかもしれません。だから徹底的にやっておかないと」
「わかったじゃあ。こいつ等にはお前に二度と手出ししないように私からキツく言っておく」
「こんな奴等が素直に言うことを聞くとは思えませんが」
「お前も天狗なら私が誰か知らないわけないだろう? だからこの通りだ」

星熊勇儀は深く頭を垂れた。

「…わかりました」

椛は手から石を捨てる。これ以上、四天王の意にそぐわない行動を取れば、今度は自分が危なくなると判断した。

「ところでお前、前に山で会ったか?」
「いいえ」
「そんなはず無いだろ。えーと確か……そうだイヌバシリだ」

以前、気まぐれに彼女が山で飲みたいと言い出して、天魔と大天狗は接待の準備を余儀なくされた。
その時に椛、文、はたて、にとりがその手伝いとして駆り出された。
酔っ払った彼女を運ぶ際、うっかり角を折ってしまった事があり、なんとか元通りにはなったが、あれほど肝を冷やした事はなかった。

「イヌバシリって名前だろお前? 白狼天狗の墓の場所を案内してくれたよな?」
「その下の名前は?」
「すまん忘れた。なんていうんだっけか?」
「なんていうんでしょうね? 自分でもわかりません」

椛は立ち上がると勇儀に背を向けた。

「ちょいと待ちなってば」

無事な一人に負傷した二人の手当てを任せて、椛を追いかける。

「そらっ」

背後から椛を抱きかかえて肩に担いだ。

「なんのつもりですか?」
「ここに居るってことは何かわけありなんだろ? 見逃してくれた礼だ、寝床くらい紹介するよ」
「放っておいてください」
「そうはいかない。今回みたいな事がまた他で起きたら困るからね」

抵抗も虚しく連れて行かれた先は、旧都の大通りから数本外れた一軒家だった。

「入るよー」

ノックもせず扉をあけた。

「また来たの? 今度はどの機械壊し…何担いでるの?」

赤とピンク色を基調とした衣装の少女は怪訝な顔をする。

「こいつの面倒しばらく見てやって欲しいんだ」
「嫌よ。なんで私がそんな赤の他人を住まわせなきゃならないのよ」
「白狼天狗と河童は仲が良いんだろ?」
「生憎と、私は河童のはぐれ者だから」
「そこをなんとか、な? 頼むよみとり」

「私の話を聞かずに話を進めないでくださいよ」

担がれた椛は窮屈そうに身を捩った。
その拍子に手にしていた風呂敷が落ちて、中身の新聞が部屋に散らばる。

「まったくもう。仕事を増やさないで頂戴。こっちは機械の納期に追われて忙し……」

愚痴りながら新聞を拾おうとしたみとりの手が止まった。

「別にいいわよ。しばらく置いてあげても」
「おお、本当か!?」
「ええ。自分の食べる分くらいは生活費として入れて貰えれば」

彼女の目は河城にとりの記事に釘付けになっていた。








文の家。
ベットで仰向けになる文は、ただただ天井を見つめていた。それ以外にやる事が無かった。

「文ー、入れてー」
「…」
「居るんでしょー?」

扉の向こうから、はたての声が聞こえてきて、視線だけそちらに向ける。

(また来たんですか)

毎日、はたてはここに来ては文に呼びかけをして帰って行く。
普段は世間話をして帰って行くのだが、今日は内容が違っていた。

「なんかあの時と逆になっちゃったね」

いつもよりゆっくりめの口調だった。
語り掛けるように、扉に向かい喋りだした。

「覚えてる? 文が椛連れてきて私の説得に来てくれた時のこと」
(忘れるわけないでしょう)

あれが全ての始まりだった。

「あの時『この二人と一緒に行動したら、自分は変われるかもしれない、欲しかったものが手に入るかもしれない』。そう思って引篭もりをやめたんだ」
(はたての欲しかったもの?)
「私ってほら、根暗で世間ズレしてて、人見知りで、消極的だから、そんな自分を変えてみたかった。変わって、気の合う友達に囲まれる充実した生活が欲しかった。でもね、その考えは間違いだった。
 ……だってその願いは、二人に出会った瞬間から始まってたんだから」

二人に出会ったことで、はたては確かに満たされていた。

「文は椛と仲良くなりたかったから、私の引篭もりの説得に椛を呼んだんだよね?」
(はたてが心配だったというのもありますが。確かにそれも目的でしたね)
「あの時、椛だけが私達に何も求めてなかった」
(そうですね。嫌々付き合せましたから)

天魔の命令でなければ、まず手伝わなかっただろう。

(あの時、椛さんに声をかけなければ…)
「もし文が『あの時、椛を呼ばなければ良かった』なんて考えてるなら。きっとそれは間違い」
( ? )
「ここから先は、全部私の都合の良い妄想なんだけどね」

そう前置きしてから話を続ける。

「復讐するっていう願いは、犬走椛じゃなくて犬走***のモノで、椛自身の願いじゃない気がする。きっと椛自身、自分が何を欲しいのか分からないまま、生きてきたんだと思う」

生き残るのに必死で、それを探す余裕すらなかったのかもしれない。

「でも。最後の最後で、ようやく見つけたんだと思う。それが見つかったから復讐も、故郷も、昔の名前も捨てられた」

文のことを斬りたくないと、悲痛な声で言った椛の姿が文の脳裏に過ぎる。

「文の命賭けの行動が、椛にそれを気づかせた」

過去よりも未来を、椛に選択させた。

「一緒に取材をして回って、鬼の酒盛りに付き合わされて、にとりの地下工房に潜入して、誤解して、喧嘩して、助けて、助けられて。そんな私達の時間は決して無駄なんかじゃないよきっと」
「…」
「一方的に喋ってごめんね。また来るから。それで一緒に椛を探しに行こう」

扉の前から気配が消える。

「全部仮説のなんの根拠も無い考察じゃないですか。仮にそうだとしても、今更どんな顔して会えって言うんですか」

淀んだ空気の中で、消えそうな声で文はそう呟いた。







旧都。

「ただいま戻りました」
「ああ、お帰りなさいイヌバシリ」

みとりは一度だけ振り返ると、すぐに視線を修理途中だったランプに戻した。

「あの、少ないですが今日の分です」

みとりの作業机の隅に、旧都で流通している貨幣を一束分置いた。
それを見て彼女は愁眉を歪めた。

「いつもより多いわね?」
「日雇いの仕事が思ったより早く終わったので、空いた時間で他の仕事を手伝ったんです」
「嘘ね」

椛の顔を覗き込む。顔色がどこか優れていないように見えた。

「また金鉱床に行ったでしょう?」
「…」

地獄の釜で溶かされた怨霊の欲望からは金が発生する。
かつてこの地底が地獄の役割を負っていた時、大量の怨霊が溶かされた。
その際に発生した金は地中に堆積されて、根気強く掘れば小粒の金が掘り出せる場所が何箇所かあった。
ただしその場所はどこも有毒ガスが発生し、金自体にも、怨霊から発生した有害な毒素も含まれているため、金鉱床に近づくことは寿命を縮めるのと同義だった。

「そこまで無理してお金なんて稼がなくて良いって言ったでしょう?」
「しかし日雇いではあまりにも少ないので」

以前にも一度、椛はそこへ赴いていた。
金を拾った後、金と毒素をちゃんと分離できる鍛冶屋を探して、そこへ持って行って収入を得たが、翌日体調を崩した事でみとりにバレ、叱られた。

「いいから寝なさい」

そのままベッドに放り込まれる。

「私が良いって言うまで起きるのは【禁止】よ」

その言葉の後、まだ体力はあるはずなのに、起き上がろうとする度に力が手足から抜けた。

「まったく、なんで貴女みたいな子が山から追い出されたんだか」
「追い出されたんじゃありません。自分の意思で出てきたんです」
「なぜ?」
「自分を殺したから…ですかね?」
「じゃあ貴女は誰なの?」
「誰なんでしょうね本当に」

犬走***という存在を否定した。犬走***こそが犬走椛の根源だった。
その根源を否定した椛は果たして何者なのか。

「自分が何者なのかわからなくなって、気持ちの整理が何もつかない間に、妖怪の山はどんどん前に進んでいくんです。私を置き去りにして」

そう思うようになったら、何もかもが嫌になって、気付いたら山に背を向けていた。

「その気持ち、ちょっとだけわかるわ」

みとりは作業の手を止め、ベッドのふちに座る。

「私、河童と人間のハーフなの。そのせいで周りから白い目で見られて、辛いことも一杯経験したわ」
「そうだったんですか」
「『もう消えてしまいたい』って、何度も思った。ちょうど今の貴女みたいに」
「…」
「山にいた頃、大雨で氾濫した川に巻き込まれたことがあったの。まぁ半分河童だから何ともなかったんだけど」

その日から、彼女は自分から川に身を投げるようになった。

「流された時にふと思ったの。このまま流れていれば、いつか水に還れるんじゃないかって、その内、溶けて消えられるんじゃないかって。でも駄目だった」

結局無傷で、下流まで流されて終わってしまった。

「当然といえば当然よね、私は仕切りを、自分と他を区別するための境界線である肉体を持っているのだから。水になんかなれるわけない」
「肉体、ですか?」
「そう。肉体があるからどれだけ遠くに流されても、私は私のままで、溶けて消えるなんて事は無かった。その時に思ったのよ、今の自分を受け入れて、自分が生きていける場所を探そうって」

彼女の言葉が、椛の心に突き刺さる。
椛は自分を犬走***の亡霊だと思っていた。
椛は手を天井に向かって伸ばす、強く握ると、手のひらの中の鼓動を感じられた。

(私は私のまま、か)

その後、みとりはあれこれと語るが、椛の耳には入ってこなかった。







某日。この日もはたては文の家の前にやってきた。
しかし、今日の説得方法は一味違っていた。

「あーあー聞こえますか文ー」

その手にはにとりから借りた拡声器が握られており、そこから流れる大音量の声が眠っていた文を叩き起こした。

「再三の督促の無視。さすがの私も堪忍袋の緒が切れました。これだけ話しかけたらアロエだって何かリアクションしてくれます。もう我慢の限界です。なので実力行使に移ります。にとり先生、やっちゃってください


「おうさ。いでよ私の大発明!」

にとりが巨大なオブジェクトに掛かっていたシーツを剥がす。
3メートルをゆうに越すクマの姿をしたロボットっだった。

「名づけて『家ぶっ壊しクマ』!!」


――――――【 家ぶっ壊しクマ 】――――――

用途:家をぶっ壊す

――――――【 家ぶっ壊しクマ 】――――――


「そのまんまじゃん! もっとヒネろうよ名前! いつものネーミングセンスはっ!?」
「色々と考えたけどね、一周したらこれに落ち着いたんだ」
「一周してないよソレ! 多分途中で力尽きてる! あと0.195キロ残ってる!」

はたては拡声器を持ち、再び文に向ける。

「言っとくけど脅しじゃないからね! 天魔様から正式に許可取ってるからね!」
「まずどっから壊そうか?」
「屋根を外してから玄関に溜めパンチで良いんじゃない?」
「オッケー」

巨大クマに掴まれてミシミシと音を立てる屋根。

(いくらなんでも滅茶苦茶でしょう!!)

これには堪らず、ベッドで横になっていた文は跳ね起きた。
そして駆け出して窓を自らの手で開け抗議した。

「待ちなさいはたて……ひゃぁ!!」

窓をあけた時、最初に見えたのは振り下ろされた鉄パイプだった。
それが、文の額数センチ手前で止まった。

「えっと、ラフメイカーです。寒いから入れてもらえませんか?」

鉄パイプを持っていた人物を見て、文は大きく目を見開く。

「え、あ、ど、どうして?」
「どうしてもの何も、帰って来たからいるんじゃないですか」

不思議そうに首を傾げてから、椛は鉄パイプを肩に担いだ。

「良いんですか? その、ご自分のこととか…」
「過去の自分も、今の自分も、全部ひっくるめて『私は私』ってことで、ひとつよろしくお願いします」

屈託の無い笑みを文に向けた。
迷いも後悔もその表情からは、微塵も感じられなかった。

「しっかし何ですか貴女は? 私が色々と投げ打って助けてあげたのに、引篭もりなんて良いご身分ですね?」
「だって、貴女に会わせる顔なんて私…」
「お黙りなさい」

ぺちりと文の額を叩いた。

「あれは私が勝手にやったこと、文さんが気に病むことなんてありません」
「でもそれじゃあ」
「そんなに私に対して申し訳ないと感じているのなら、ちゃんと責任とってください」
「責任ってその……もしかして結婚、ですか?」
「なんでそうなるんです?」

「「ヒューヒュー」」

「そこ、黙って!」

面倒くさそうに頭を掻く。
しかしそれが照れ隠しの癖だということを、三人はこれまでの付き合いで知っていた。

「私の人生を捻じ曲げたっていうんなら、これからの生活で償っていってください。良いですね?」
「わ、わかりました。なので今後ともどうか。不束者ではありますが」
「なんで三つ指付くんですか? いい加減その発想を止めてください」
「「ヒューヒュー」」
「だから止めてください!」

「まぁまぁ。本当に久しぶりに三人仲良く揃ったことだし」

にとりがカメラを取り出して三人に見せる。

「記念写真撮ろうよ」











それから月日が流れる。



「狭いですね」
「うん、狭い」
「…」

「狭いわね」
「狭いのう」
「…」

「はたて、もっとそっち寄ってくださいよ」
「文だってもっと下がってよ」
「ごめんね。無駄に足が長くてごめんね」
「おいはたて、儂を肩車せい。それで空間が出来る」

「そんなに不満なら出てってください」

自分の家に上がりこんでいる文、はたて、天魔、大天狗に向け、額に青筋を浮かべながら言った。

「いやー冗談ですよ椛さん。こじんまりしてて落ち着くじゃないですか」
「掃除とか楽そうだよね」
「隠れ家的な素敵なお家じゃない」
「住めば都と言うしのう」

「褒めてるのか貶してるのかはっきりしてくれませんかね?」

淹れたてのお茶が乗っている盆を引っくりひっくり返さないよう必死に自分を律する。

「それはそうと、合格おめでとうございます椛さん」
「おめでとう椛」
「これで堂々と私んとこに遊びにこれるわね」
「お主が隊長なら頼もしいことこの上無いわ」

「ありがとうございます皆さん」


今日は椛の隊長試験合格を祝うために集まっていた。
合格発表があったこの日の夕方、最初に文が来て、次に大天狗、最後にはたてと一緒に天魔が来た。
別に示し合わせたわけではない。自然と集まってきたのだ。

「はたてさんが教えてくれたお陰です」
「椛の頑張りがあったからだよ」

帰ってきてから試験の日まで、猛勉強した甲斐もあり、筆記は及第点を取ることが出来た。

「筆記はギリギリでも、実技はダントツだったからねモミちゃん」
「そんなにすごかったんですか椛さん?」
「一対一の模擬戦を五試合やるんだけどね。対戦相手全員を瞬殺」
「すごい」

はたてから憧れの視線が注がれる。

「やっぱり剣の鍛錬再開しようかな。私って椛みたいに盾を持つスタイルなら向いてるかも。はたて(刃盾)なだけに」
「…」
「…」
「…」
「…」
「おっとぉ?」


空気を変えるために、天魔は違う話題を出した。

「そうそう。二柱より祝いの品を預かっておるぞ」
「神奈子様と諏訪子様からですか?」
「うむ。おそらくお主に対して、それなりの罪悪感はあったようじゃ」
「そうですかね?」
「大きかった故、外に置いてある」

縁側から庭を覗くと、抱えるほどの大きさの黒いカエルが鎮座していた。

「諏訪子神からは、黒曜石で出来た蛙の置物じゃ」
「どう考えても嫌がらせですよねこれは。黒いカエルとかトラウマほじくり返す気満々時じゃないですか。倉庫に眠ってる処分品を押し付けたいだけですよね?」

仮に置いたら、場所を取るうえ、床が抜ける未来が容易に想像できた。

「神奈子神からは御柱を預かってきた」

よくよく見ると、庭から生えている木のすぐ隣に立派な大きさの御柱が立て掛けてあった。あまりにも自然すぎて気づかなかった。

「揃いも揃ってあのポンコツ神は…そんなに私のことが気に入らないなら直接殺しに来れば良いのに」
「ひょっとしたらドッチもすごい価値のある品かもしれないわよモミちゃん?」
「使い道がなきゃ粗大ゴミですよ」
「この家の柱とか?」
「狭くてしょうがありませんよ。というか、天魔様にこれを運ばせる時点で無礼千万じゃないですか」

椛は知らないが、二柱の贈り物は、詳しい者が見れば相当な値打ち物であった。

「あと、巫女からも預かっておるぞ」

天魔は袖から封筒を取り出す。

「御札ですかね? 家内安全とか?」
「とりあえず開けたら?」

出てきた白い紙を広げると婚姻届が出てきた。東風谷の印鑑がすでに捺されている。

「早苗さんから何かお話聞いてませんか天魔様?」

求婚されるような覚えは無い。

「なんでも『居酒屋で酔い潰れた時に飲み代を立て替えて、宿代まで出しくれた事と山火事から助けてくれたから』と言って非常に恩義を感じておったぞ?」
「どうしてそれを?」

全て早苗には告げていなかったはずだったが、どうやら最近になって、巡り巡って早苗の耳に入ったようだ。

「重い。見た目に反してすごく重いです」
「ここで守矢の巫女をものにしちゃえば、ひょっとしてモミちゃんが守矢を牛耳れる?」
「だ、ダメですよ椛さん! 愛の無い結婚なんて論外です!」

この紙については後日、早苗に返しに行った際、丁重に断るということで決着がついた。

「せっかく揃ったのなら、祝賀会でもせんか? ちと狭いが」
「良いですね。狭いですけど」
「文に賛成。ちょっと狭いと思うけど」
「良いわね。今ならどんなお酒もおいしく飲めそうよ。ちょっと狭いけど」

「摘み出しましょうか一人ずつ順番に?」

「そうと決まれば買出しじゃな、ちょっと行ってこよう」
「天魔ちゃんに行かせるのは流石にマズイわ。私が行くわよ。良い酒扱ってる店知ってるから」
「大天狗様が行くのもダメでしょう。私が行きますよ」
「文が行くなら私も行く」

文とはたてが天魔から貨幣の詰まった巾着を預かり、買出しに出かける。

(よくよく考えたら、これはすごい状況だ)

下っ端の白狼天狗の家に、山の最高位にあたる二人がいる風景。

「椛よ。お主、未婚であろう?」
「そうですが、それが何か?」
「力は弱いが聡明で優しい男がおるのじゃが、会ってみんか?」
「ええと、その」
「あら良いじゃない。会ってみたら? そろそろ女の幸せ見つけたら?」
「文さんはたてさん! 私も行きます!」

耐え切れなくなった椛は家を飛び出した。

「うわっと」

家を出てすぐ、大きめのサイズの封筒を持ったにとりと出くわした。

「おっす椛。隊長昇格おめでとう。お祝いに来たよ」
「ちょうど良かったにとり。私達が戻るまでお二人のお相手をお願いします」

そう頼んでから、二人を追いかける。

「二人って?」
「あらにとりちゃんいらっしゃい」
「お主が河城にとりか。噂はかねがね」
「ひゅいぃぃぃぃぃ!!」

にとりの手から封筒が落ちる。
その拍子に中に入っていた写真が顔を出す。
写真の中、椛、文、はたての三人が仲良く顔を寄せて笑っていた。
かつて文が引篭もりを止めた日に撮られたものだ。三人の再出発した日の記念だった。
祝いの品として、それを大サイズに伸ばして届けに来たのだ。










追いついた椛は二人の横に並ぶ。

「決めました。隊長になって上がった給料で家を増築します」
「まぁ隊長職さんがあの家では、部下に示しがつきませんからね」
「ええ。それに今の家の広さじゃ大勢呼べませんから」
「へ?」
「最近は、賑やかなのも悪くない気がしてきまして」

文とはたては立ち止まり、お互いの顔を見合わせる。
椛に起きた変化を実感し、笑った。

「なぜ止まるんです? にとりを待たせているんです。早く買って戻りましょう」
「はい」
「そだね」

歩き出し、文が椛の右手を、はたてが左手を握る。

「行きましょう椛さん」
「行こう椛」

二人はこれからも探し続ける。犬走椛が救われる言葉を、その方法を。
それが見つかるのは今日かもしれないし、ひょっとしたら一生来ないのかもしれない。

「なんですか急に?」
「突然こうしたい気分になりまして」
「文と同じ」

ただ今は、見つかることを信じて、その手を優しく引いた。

「…」

この時、椛の脳裏に先輩が残していった言葉が過ぎった。

『次にお前が誰かに手を引かれた時、必ず後ろを振り向く呪いをかけた』

言われた通り、振り返った。

「……ふふ」

先輩が伝えたかった事を理解して、椛の頬が緩む。

「どうかしました?」
「何か落とした?」
「いえ、何でもありません。行きましょうか」

犬走椛は、前を向いて歩き始める。

そこに残った足跡は、もう一つでは無かった。
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コメント

一人分の足跡しかなかった椛の道に二人の足跡ができてやっと前を向いて歩けるようになったのですね。
これからはもっとたくさんの足跡がついていくのでしょう。
PS はたてにもフラグが立ったようですし椛は誰と結婚するんです?

  • 2013/01/13(日) 21:17:03 |
  • URL |
  • KNR #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

> KNR様

両方いっぺんに娶ってしまう…という未来もひょっとしたら。
椛が幸せに向かっていく終わり方ができて良かったです。

  • 2013/01/14(月) 07:17:09 |
  • URL |
  • 木質 #-
  • [ 編集 ]

長きにわたる連載お疲れ様です。
最後まで書ききられた木質氏に惜しみ無い称賛を贈りたいと思います。
感想ですが、希望の見えるラストでとてもよかったと思いました。簡潔でくどくない文体もとても読みやすく、素晴らしかったと思います。
ただ……ここからは飽くまで私個人の感情面でのことですが、幾つか疑問、というかキャラ面で感じた事を。
大天狗さんと天魔さん、椛に対して悪いこといっぱいしたなぁーという想いはあっても、文やはたてのようには「身を削っても償おう」という気はないのだなぁ…と感じました。「殺されたとしても致し方無いと思う」という覚悟のようなものはあっても自発的にはなにもする気はない。組織の管理職としてみれば正しいのですが、特に大天狗さんはプライベート的な会話が多いですし、泣くのを堪える椛を慰めようとしたりして、こういうとなんですがいい人アピールがある分その表面と深層に隔たりに正直、憎しみを感じました。椛に文暗殺をさせたくだりで、それは特に強く感じました。
自分が償う気は無い(でも償わされたときはしょうがないね)。それで組織が回るなら、白狼天狗にはいつでも泣いてもらう。それはそれとして椛とは馴れ合う。……というスタンスに私には見えて、正面きって悪行を働く守矢陣営より背筋が凍る存在に思えました。木質さんが書く紅魔もののパチュリーに近い感覚のストレスを大天狗・天魔に感じました。
勿論そういった複雑な立場や想いがストーリーに厚みを持たせ、特に椛や白狼天狗のどうしようもない境遇をより浮き彫りにする役目をおっていると思いますので、このジレンマも大事なスパイスと思います。心身捧げる役は文の役ですしね。
ただ、今回分かりやすいゲスだった神奈子が椛に詫びの品を贈ったのは、今までのキャラ的にそういうことするやつか?という疑問があります。
……それこそゲスな勘繰りですが、貯まりに貯まったヘイトを作者氏が薄める為の、禊だったのかな?と。(直接関係はありませんが口授で判明した神奈子の思想やキャラも正直アレでしたし)

批判的なことを書き連ねまして申し訳ありません。きっと的外れなこともあるかと存じますので、その際には御手数ですがこの文章は削除をお願いします。
最期に、この作品には時にハラハラさせられ、笑わさせ怒りに震えととても楽しみなシリーズでした。完結を寂しく思いますが、氏の別シリーズの更新を心待にしてお待ちしております。
かしこ

  • 2013/02/22(金) 20:54:26 |
  • URL |
  • 鯖人 #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

鯖人様
読んでくださってありがとうございます。
大天狗に対する認識ですが、鯖人様が感じられている内容で間違いありません。
大天狗はズルいです。そしてワガママです。
彼女は山の治安の為に多くの白狼天狗を犠牲にした行為を、必要な犠牲だったと思っています。
白狼天狗に対して一定の敬意は払っていますが、罪悪感はそれほど強く持っていません。
昔、大勢の白狼天狗を犠牲にした。でも椛とは仲良くしたい。組織のNo.2という地位にいる強者ゆえのワガママです。
作中で大天狗が裁かれなかった(不幸な目に合わなかった)のは、彼女行為が半分は悪で、半分は正義だったからです。(白狼天狗にとっては理不尽極まりない行為ですが)
本作の大天狗を見て「組織のトップとしてしょうがない」と思う方もいらっしゃれば「正真正銘のクズ、性格破綻者」と思う方もいらっしゃるはずです。

最後にある神奈子の贈り物は、知り合いが昇格したので贈っただけの『ご祝儀』程度の物のつもりで書いたのですが、私の説明不足でした。
「エピローグなんだからちょろっとだけ守矢の存在も出しとかないと」と考えたらこういう形での登場となりました。
守矢神社は最後まで悪役の道をつっ走らせるつもりでいて。「椛の故郷を潰しておいていけしゃしゃあと祝いの品だと?何様のつもりだ?」くらいに思われれば良いと思ったのですが我ながら説明不足だったと痛感します。
今更の弁解が許されるとは思いませんが『組織としての付き合いがあるため、形式上贈った』や『怨霊の気に当てられて多少考えを改め、椛に罪悪感を持つようになったから贈った』等、補完してくださると助かります。

ご不快な思いをさせた事。心よりお詫び致します。
そしてこれほどまでに深く読み込んでくださったことに厚く御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

  • 2013/02/23(土) 11:34:27 |
  • URL |
  • 木質 #-
  • [ 編集 ]

>木質さん
丁寧なお返事ありがとうございます。
私の文章力が低いが故に、木質さんに無用の謝罪をさせてしまったこと、心よりお詫び申し上げます。
私は決して不快に思ったりはしていないのです。どうぞご安心ください(ストーリーにのめりこんで「神奈子め!」「大天狗め!」という意味では怒りという感動を大変おいしく味わいましたが)

大天狗については、なるほどそれで合っていたのですね。上司にも友達付き合いもしたくないキャラですねw
しかし、生きるが故に心身の大事な部分の多くを潰し、均ししながら生きてきた椛にとっての「現在の状況の大天狗」はやはりマシな相手なのでしょう。そして大天狗が、ともすれば怨敵のあの蛙天狗……には劣るかもしれませんが、まあ殺意を向けてもおかしくない相手にも関わらずそういった精神的働きが起こらないことに、その妥協点の低さ(間違っても心の広さではないでしょう)に椛の悲哀を感じずにはおれません。

>守矢の贈り物
コレに関しては本当に私のゲスな勘繰りでした。当初私も木質さんの目論見どおり「あんだけしてお祝い品だとぉ!?」と素直に怒りを感じていました。変に勘繰りすぎました。
実は、私がそう勘繰ったのは、「目利きできるものが見れば高価」という部分です。
「高いものとか自身の象徴ともいえる御柱を送ってくるということは、それなに反省とか和解の意思?などがあるのか?」という考えが「そういう反省とかをする奴だからそれほどの極悪人でもないという描写をしたかったのかな」という発展と化学変化した結果、ヘイト希釈という勘繰りへと最終的にいきついてしまい、それが全くの的外れだったという結果を招いてしまいました。
木質さんの作品を全て何度となく見返しているにも関わらず、そんな温い事をする方ではないという思索に行き当たらなかったのは痛恨の至りです。申し訳ありません。
木質さん自ら補完の候補を提示してくださったこと、大変ありがたく存じますが、私は木質さんの当初の「何様のつもりだ?」説を採りたいと思います。
何故なら「知り合い」このひとことです。
「敵」……でないうえに、恨みを向けてくる「障害」でもなく「知り合い」
この守矢の相手への認識が、まさに悪役にふさわしい邪悪さに満ちていると感じました。私の歪んだ心境的には「よかった、存分に恨めるぞ」という感じですw

私の拙い考察というか感想に丁寧な返答を用意してくださり、本当にありがとうございます。
もこもこ王国(第二期にふらんちゃんが国民にいないのが残念ですが)や、夢の夢の…シリーズの続編を心待ちにしております。しかし、どうぞ木質さんのペースで無理なくご執筆ください。その折にはご迷惑でなければまた感想を書かせていただきたいと存じます。
それでは。

  • 2013/02/23(土) 15:06:50 |
  • URL |
  • 鯖人 #-
  • [ 編集 ]

vol.7から続けて読ませていただきました。気持ちよい収束でした。ありがとうございます。
 黒曜石で出来たカエルの置物…素手で削って作ったんですね。わかります。
 天狗も神様も、内輪だけ見ていれば和やかですが他勢力と絡ませると利己の追求に走るんでしょう。
 できれば旧支配者の鬼連中との絡みも、もうちょっと見れると良いなと思いましたが、今は鬼の代わりに神様がきて、やっぱりお互い腹の探りありをしながら手を取り合い(ここもうちょっと皮肉の利いたニュアンス来い)共存してゆくのでしょうね。やっかいな隣人ですが、天狗だけでは保守的で何も変わらない、変化を許さなかったと思いますので、良きにつけ悪しきにつけ他者と関わることは変化するのに必要だと思いました。
以上、長文の小並感で失礼しました。

  • 2013/02/24(日) 04:03:35 |
  • URL |
  • 次号、真剣師 -犬走椛- 編に続かない #-
  • [ 編集 ]

やっと、最終回を拝読させていただきました。
シリアス極まる引きで終わってましたので、開幕から怒涛のハード展開かと思いきゃ、例によって随所にギャグが散りばめてあり、メリハリが効いてて、とても楽しく読む事が出来ました。

射命丸の些か視野狭窄的な暴走を経て、椛自身が、自らの手によって過去を清算するという結末も、切ないながらも、とても納得のいくものでしたし、最後の足跡のくだりも凄く良かったです。

本当はもっと色々と申し上げたい事があるんですが、文章力の無さが呪わしい…。
ともあれ、シリーズ終了お疲れさまでした。次作も楽しみにしておりますので、御無理の無い範囲で頑張って下さい。

  • 2013/02/25(月) 14:56:31 |
  • URL |
  • ぱらボら #QMnOeBKU
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

次号、真剣師 -犬走椛- 編に続かない 様

幻想郷で天狗社会以上に保守的な組織はなさそうですよね。
大きな船がすぐに方向転換できないのと同じで、大所帯だから柔軟な対応というのが極めて困難なんでしょうか。
原作の次回あたりで、文やはたてが山に新しい風を起こすことを密かに期待しています。

  • 2013/02/25(月) 22:26:11 |
  • URL |
  • 木質 #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

ぱらボらさん

大変ご多忙な中、読んでくださって本当にありがとうございます。
ぱらボラさんがご納得いく結末がかけたことを嬉しく思います。これを励みに、今後とも精進致します。
天狗三人娘はどの場面も書いていてとても楽しかったです。

一年半続いたこのSSにお付き合いくださって非常に光栄です。
私もぱらボらさんの次回作が非常に楽しみです。

  • 2013/02/25(月) 22:35:36 |
  • URL |
  • 木質 #-
  • [ 編集 ]

とってもおもしろかったです。
一気に読ませていただきました。
終わるのが悲しいです。
コミケに本として出してくれたりはしませんか?

  • 2013/04/04(木) 19:44:14 |
  • URL |
  • F15 #k9MHGdfk
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

F15様
読んでくださってありがとうございます。
本ですか。
その発想は無かったです。
今まで投稿した話の他に、後日談として新たに一話書き足したのを本にしてまとめる。というのを想像したら、なんだかとてもワクワクします。
それの表紙をどなたかが描いてくださったら、きっと嬉しさで発狂するでしょうね。

妄想はさておき、
最近、イヌバシリさんシリーズでもう一話だけ書こうかどうか検討中です。
もし書きあがったら、それも読んでくださると嬉しいです。

  • 2013/04/04(木) 23:23:43 |
  • URL |
  • 木質 #-
  • [ 編集 ]

横から失礼しますmm
マジで本にして出されるんなら、是非表紙描かせてやって下さいまし。
ただ、表紙って売り上げに可也影響出ちゃう部分ですので、私なんぞよりネームバリューの高い方が居られれば、そちらの方を優先していただいて結構ですので。

ともあれ、もう一話追加なさるかもというお話、是非前向きの方向でmm

  • 2013/05/16(木) 07:35:06 |
  • URL |
  • ぱらボら #QMnOeBKU
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

>>ぱらボらさん

ぱらボらさんほどの有名な方からそのような言葉を頂けて大変光栄です。
本にするうんぬんはまだ全くわからないのが現状ですが、ぱらボらさんが描く、あの可愛くも美しい天狗三人娘がそのままイヌバシリさんシリーズのイメージになると妄想すると興奮で悶え死にそうです。
そのような評価をいただき、SS書きをやってきて良かったと喜びを噛み締めております。

現在、イヌバシリさんの続きとなる話を書き始めております。
投稿はまだ先になると思いますが、お時間のある時に目を通していただけると幸いです。

PS:例大祭にぱらボらさんがお出しする椛本が楽しみで仕方ありません。

  • 2013/05/16(木) 20:30:18 |
  • URL |
  • 木質 #-
  • [ 編集 ]

過分なお言葉有難うございます。
普段あまり文章を読まない自分が、どっぷり嵌まり込んだ作品ですので、そう言っていただけると感無量です。
時間的な猶予があれば、挿絵なんかも描かせていただきたい所ですが、現時点では先走りすぎですねw
ともあれ、例大祭でお会い出来るのを楽しみにしておりますので、是非お名前を仰って下さいね。

  • 2013/05/16(木) 23:16:54 |
  • URL |
  • ぱらボら #QMnOeBKU
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

>>ぱらボらさん

例大祭前のお忙しい時期にお返事をくださりありがとうございます。

やはりSSを書いている以上、自分が書いたものを挿絵付きの本にしてみたい。という野望はあります。
ぱらボらさんに挿絵依頼のお声を掛けられる日が一日でも早く来るよう精進致します。

例大祭には今のところ行けそうです。
その時は大変恐れ多いですが、一言ご挨拶のほどさせて頂きたく存じます。

  • 2013/05/17(金) 01:07:06 |
  • URL |
  • 木質 #-
  • [ 編集 ]

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